新門随想

(20)がんばれ、東北

 

 三月十一日、宇都宮市文化会館で開催された栃木県曹洞宗青年会主催の公開講座に出講した。午後二時に講演を終え、宇都宮駅に着いたのは二時三十分。東北新幹線に乗り座席に坐ったのは二時四十五分であった。電車が大きく揺れ、車内は騒然となった。その後も余震が続き、やがて鎮まると列車から降ろされ、駅員の誘導で東口の駅の広場で待機することとなった。これはまずいと泊まれるホテルを探したが、ホテルのロビーには通路まで坐り込んだ人々であふれていた。その姿はまさに難民の様相を呈していた。電気が来ていないので商店は早々に閉めていて、水も食べ物も手にはいらなかった。空腹と寒さで震えながら道路に立っていた深夜の二時、目の前に品川ナンバーのタクシーが停まった。乗客が降りた後、東京へ戻るのかと聞くと、戻ると言った。私はうれしくなって乗り込んだ。東京駅に着いたのは朝の七時を過ぎていた。
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 文政十一年(一八二八年)十一月十二日午前八時頃、越後三条に大地震があった。この地震の被害は死者千六百七名、負傷者千四百余名、倒壊家屋一万三千余軒、焼失家屋千百七十軒、半壊九千三百余軒という記録がある。江戸時代末期の日本の人口は三千万余りであったから、この数字は大きい。

 当時三条にほど近い島崎の木村家の草庵に住んでいた良寛は、七十一歳であった。さっそく知人たちに安否を気遣う手紙を出している。
 その手紙の中で、友人の山田杜皐へ送った手紙が有名である。
「地震は信に大變に候 野僧草庵何事なく候、親るい中死人もなくめで度存候。〈中略〉災難は逢時節には災難に逢がよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 是はこれ災難を逃るゝ妙法にて候 かしこ」
 災難に逢う時は災難に逢い、死ぬときは死んだらいいとは、被災者の心を逆なでするような発言だと誤解する人もいるだろう。しかしこの文は良寛自身がそうした事態に直面した時の禅僧としての覚悟を語っているのであって、被災者に向かって言っているのではない。気心も知れ、仏教も十分理解していた友人山田杜皐への手紙である。
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 人は死に直面すると優しくなる。無縁社会が一瞬のうちに有縁社会になる。死ぬことなど考えもしないで科学技術を信じ、延命と快適や快楽を追い求め、生を謳歌している社会は、やがて個人がバラバラに孤立化し無縁社会の到来を招くであろうと、十数年前から私は訴え続けてきた。そんな危惧を振り払うように劇的に変えたのがこのたびの東日本大震災であった。一九九五年の神戸の大震災の時もそうであったが、人々は一瞬のうちに優しくなった。つい先日まで他人のことなど顧みもしなかった人が積極的に支援したり、「一人ではない」と言ったりしている。「かまわないでくれ」と言っていた人が素直に「ありがとう」と言っている。

 私が納棺の現場で死者たちから教わったことは、死の実相は死の瞬間にあるということだった。死の瞬間に己の人生のすべてが去来し、「みなさん、ありがとう」と生き残った人々に〈いのち〉を託して、微笑んで死を迎えている事実であった。このたびの惨事の死者たちも、津波が引いた後の惨状を見ることなく、「ありがとう」と美しい世界へ往かれたと私は信じて疑わない。

 仏教に「大悲大慈」という言葉がある。大悲とは大きな悲しみのことであり、大慈とは無償の優しさのことである。また仏教は永遠の〈いのち〉を見据え〈今を生きる〉ことを説く。そのことは大自然の摂理に従って生きることを旨としているからである。
 津波で死んだのは人間ばかりではない。おそらく人間以外の生物も多く死んだに違いない。たとえば多くの蟻たちも命を落としたに違いない。一億年前のコハクの中の蟻は、人類が誕生する前の一億年も前から今日の比でない大地震や大津波に遭いながら生き抜いてきたことを物語っている。蟻塚を熊やアリクイに壊されても、鍬やブルトーザーで人間に破壊されても、生き残った蟻たちは即座に巣の復興に取りかかる。

 被災地で生き残った桜の木が花をつけている。人間以外の生物のこうした生命力は〈今を生きる〉ということが身についているからに他ならない。仏教は大自然のいのちを生きること説く教えである。
 がんばれ、東北。がんばろう、日本。

『SOGI』123号 青木新門

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