新門随想

(18)唯仏是真

 

 先日、ある人権問題の集会に招かれた。主催者は「人間らしく生きるために」というテーマで講演をしてくれという。私はとまどった。というのは、私にはこの〈人間らしく〉という意味がよくわからないからである。ただ人間に絶対の信頼を寄せていることだけはわかる。近代ヨーロッパ思想のヒューマニズム(人間中心主義)を基盤とした理想的な人間像をイメージしての発言らしい。しかし、ヒューマニズムをスローガンにしながら戦争を繰り返してきた人間の歴史を思うと、いっそうわからなくなってしまう。 

 最近わが国の周辺で起きている事件も気になる。竹島、尖閣諸島、国後・択捉など領土の境界での事件をはじめ、北朝鮮による延坪島(ヨンピョンド)攻撃に朝鮮半島は三八度線を挟んで一触即発の状態が続いている。砲弾が打ち込まれる前まで平和的な統一を支持していた韓国民は七割もいたのに、今では七割が〈目には目を〉と戦争も辞さない方向へと態度を豹変させている。

 こうした現象を見るたびに私は、人間の生きる悲しみを覚えざるをえない。そして〈人間らしさ〉とは何だろうと思ってしまう。国後島へロシアのメドベージェフ大統領が訪れたことなどは、動物のマーキング(匂い付け)に等しい行為のように思えてくる。そのことに目くじらを立てるのも動物的本能以外の何ものでもない。熊が里山に姿を見せない間は、〈共生〉などと立派なことを言っている人間だが、いったん人が襲われたりすると、その熊は猟友会員によって射殺される。今年も二千数百頭が駆除されたという。

 猫や犬や虎なども縄張りを確保するためにマーキングを盛んに行い、その縄張りの境界でばったり出会うと命がけで戦う。だが動物の場合は一対一の戦いがほとんどで、集団的行動をする動物でも、ボス同士の戦いで決着がつく。ところが人間の場合、集団全体を巻き込んだ戦いとなる。集団とは、家族であり、部族であり、国家などだが、相手より多く動員し、相手より優れた武器を持ったほうが勝利を得る確率が高いことから、必然的に最新鋭の大量破壊兵器を用いた国家総動員の戦争となってしまう。
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 仏教に出遇った聖徳太子は「世間虚仮・唯仏是真」という言葉を残した。私はこの言葉を思うと、なぜかアインシュタインの言葉を思い出す。「科学的でない宗教は盲目である。だが宗教のない科学は危険である」という言葉。アインシュタインが、広島に原爆が投下されたことを知ったとき発した言葉である。

「世間虚仮・唯仏是真」とは、人間社会には真実はなく、仏の教えのみが真実であるということであるが、アインシュタインの「宗教のない科学は危険である」に通じるような気がする。要するに宗教を見失った人間は何をするかわからないということである。人間らしく生きるなどと言っていた人間が、次の瞬間動物より劣る行為を平気で行う。それが人間である。そのことを見抜いて説かれたのが仏教である。わが国の高僧と称された人たちも仏陀の教えに忠実であった。

 たとえば、源信の『往生要集』の冒頭の章名に由来する「厭離穢土・欣求浄土」は法然、親鸞と続く浄土教の根幹をなす思想だが、聖徳太子の「世間虚仮・唯仏是真」とその真意は等しい。戦国時代に徳川家康が馬印に用いたのが「厭離穢土・欣求浄土」だが、当時ただがむしゃらに戦っていた家康に「戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから国土が乱れ穢れる。その穢れを厭い離れ、永遠に平和な浄土を願い求めるなら、必ず仏の加護を得て事は成す」と三河国大樹寺の住職登誉に諭されて家康は馬印にしたのであった。

 今日の仏教葬から欣求浄土の心など欠片も見られなくなった有様を見るにつけ、戦国の武将でさえ欣求浄土を目指していたのにと考えさせられてしまう。浄土を求めないのなら葬式のあり方もお別れ会、偲ぶ会でいいのであって、僧侶が関わる必要はない。人間の自我を是認したままの「人間らしさ」を重んじる社会にあっては、無我を前提とした仏教は成り立たない。「唯仏是真」など空虚な言葉と化してしまう。彼方から「極重悪人唯称仏」と親鸞の叫びが聞こえてくる。

『SOGI』121号 青木新門

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