新門随想

(17)炭坑節

 

 私は最近あちこちの講演に招かれ出かけることが多い。先日も福岡県博多・天神の西鉄ホールでの講演を終え、同じビル内にあるバスターミナルから直行バスに乗って次の講演会場である筑豊の田川市へ向かっていた。バスには私の外三人の老齢の客が乗っていたが、途中で一人降り二人降りして最後は私一人になっていた。立派な大型バスに一人乗っていることに気づき、申し訳ない気持ちで窓を覗いていたら香春山が見えた。『万葉集』にも歌われた山で、五木寛之氏の『青春の門』にも登場する山である。目的地の田川市に近づいたようであった。

 田川市は明治末から炭鉱の町として、最盛期には全国の石炭生産量の五〇%を生産する筑豊炭田の中心の町として繁栄していた。しかし一九六〇年代のエネルギー革命で石炭から石油に転換されるとかげりが見え始め、やがて一九六四年、三井田川鉱業所は閉山となり、一九六三年には一〇万だった人口が、現在は半減の五万になっているという。

 バスを降り、主催者が予約してくださった宿へと向かった。部屋のカーテンを開けると目の前に二本の煙突が見えた。「炭坑節」に歌われた煙突である。

 月が出た出た月が出た
 三井炭鉱の上に出た
 あんまり煙突が高いので
 さぞやお月さん
 煙たかろ サノヨイヨイ

 炭坑節は、炭鉱労働の中で自然発生的に生まれた仕事唄が宴席に持ち込まれ、やがて花柳界で三味線の伴奏がつき、洗練されて座敷唄として歌われるようになったという。大正から昭和にかけて筑豊の炭鉱主たちが博多や小倉などの料亭で豪遊することもあって、宴席では欠かせない唄となり、やがてラジオを通じて全国にも知られるようになったのだという。炭坑節が爆発的に広まったのは戦後で、「戦後の復興は石炭から」という国策に添って、この唄がラジオで毎日のように流され大流行した時期があった。

 翌朝宿の一階にある食堂で朝食をとっていたら、八〇歳ほどの女将らしい人が私の横に座って話しかけてきた。「炭坑節」のことを問うと、昭和三十年代の当時のことを語り始めた。私が食べ終わるまで彼女の青春が蘇ったかのように活き活きと話していた。

 私は田川を後にして福岡空港から東京に向かった。大手企業百数十社が参加する「東京人権啓発企業連絡会」主催の人権啓発・採用担当者養成講座に出講のためだった。会場の東京ビッグサイト(国際展示場)に着いて浮かんだのは、道元禅師の『正法眼蔵』にみる「有時」という言葉であった。

 有時とは、時間を離れて空間はありえず、空間を離れて時間はないという捉え方で、過去は過ぎ去ったものでなく常に過去を丸抱えにして体験される〈永遠の今〉を生きる仏教思想を説いている。この思想がなかなか受け入れられないのは、進歩とか進化という近代ヨーロッパ思想の概念にあるような気がする。

 若者は古いものをダサイと言ったりする。たとえば現代科学はDNA(遺伝子染色体)を解読し、現在の酸素に満ちた地球環境では盲腸のように不必要になった癌細胞のDNAも、地球が低酸素の劣悪の時代を生き抜くための必要不可欠の存在だったことがわかってきている。そして癌細胞の遺伝子を殺せば、生細胞も死に、人が死ねば癌細胞も死ぬ表裏一体の関係にあることがわかったのである。そのことは、過去を丸抱えしながら今を生きているということである。そうした関係を仏教は見抜いていた。

 五〇年前浅草海苔の産地であった有明の浜辺が、最先端の現代建築が立ち並ぶわが国最大のコンベンション会場となっている。私はビッグサイトの広場のベンチに座って、目の前を颯爽と歩く大手企業のエリート社員たちを見ながら、あの田川の宿の女将も五〇年前は炭鉱で働く若者たちを相手に威勢よく「月が出た出た」と炭坑節を唄って青春を謳歌していたことだろうと思うのだった。 

『SOGI』120号 青木新門

広告
新門随想に戻る