新門随想

(16)出羽三山

 

 先日、山形県鶴岡市羽黒町主催の講演会に出向いた。鶴岡駅で下車すると、市の職員らしい男女二人に迎えられ、羽黒山の頂上にある食事処で昼食をしてから会場へ向かうと告げられた。私は仰天した。とっさに二千四百段の石段が浮かんだ。以前に来た時、その石段を息切れしながら登った記憶が蘇った。朝三時に起きて、六時間も列車に乗ってやって来て疲れている。「会場近くで簡単な蕎麦か何かでいいのですが」と言うと、「予約してありますので」と返事が返って来た。相手は精一杯のもてなしのつもりらしい。あきらめて車に身を任せていたら、車は杉木立の間を縫うように走って山頂に着いた。
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 出羽三山の開山は、千四百年余前の推古天皇元年(五九三年)、第三二代崇峻天皇の御子蜂子皇子が、蘇我氏との政争に巻き込まれ、難を逃れるために回路をはるばると北上し、出羽国に入り開山されたとされている。その後、皇子の遺徳を慕い、加賀の白山を開いた泰澄や修験道の祖ともいわれる役ノ行者などが来山し修行をしたと伝えられている。

 現在は、神の山として信仰されているが、神仏習合時代には本地垂迹の思想で成り立っていた。本地垂迹とは印度の仏(本地)が日本に来て神(垂迹)の姿となって現れ、衆生を済度してくれると説く教えである。羽黒山は観音菩薩、月山は阿弥陀如来、湯殿山は大日如来を本地とし、明治維新まで神仏習合の姿で信仰されていた。それぞれの仏には役割があって、羽黒山では現世利益を願い、月山では来世の極楽浄土を乞い、湯殿山で功徳を得て再びこの世に生まれ出ことを三山を巡る巡礼者は祈ることになっていた。この死と再生の思想こそが三山信仰の根幹をなしていたのである。
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 芭蕉も奥の細道の旅でここを訪れている。
「八月三日羽黒山に登る。四日、本坊にをゐて誹諧興行。五日、権現に詣。八日、月山に登る」と「奥の細道」に記しているから、一週間もここに滞在していたことになる。
「月山・湯殿を合て三山とす。当寺武江東叡に属して天台止観の月明らかに、円頓融通の法の灯かゝげそひて、僧坊棟をならべ、修験行法を励し、霊山霊地の験効、人貴且恐る。繁栄長にして、めで度御山と謂つべし」(「奥の細道」より)

 今では芭蕉が訪れた当時の〈僧坊棟をならべ、繁栄長にして〉の面影はない。案内の観光課の職員に促されて、元寺院跡の食事処へと向かった。勅使の間と表札がある部屋へ通されると、前方に鶴岡市が遠望された。
「あれが鳥海山です」と職員は右手を指差した。本木雅弘君がチェロを弾いていた時背景となった山である。私は市の職員が映画「おくりびと」の撮影があった当時のことを目を輝かせて話すのを聞きながら、「おくりびと」がこの地で撮影され、庄内の人々に異常なほどにおくりびとブームを巻き起したのは、アカデミー賞受賞もさることながら、千四百年間脈々と庄内の人々の心の奥底に流れていた死と再生の思想が蘇ったからではないだろうかと思うのだった。

 死と再生の思想は、インドでは古来より信じられ現在のヒンズー教がバラモン教と称されていた時代からその宗教の骨格をなす思想で、今でも民衆のほとんどは輪廻転生を信じている。チベットでもそうである。
 外来の宗教が根づくには、その風土から生まれた神々と融合するなり以前にあった神々を守護神にしたとき根づくのである。ロシア正教や南米のキリスト教を例に挙げるまでもなく、チベット仏教の曼荼羅絵図の外郭に描かれているのは土着の神々である。わが国の神仏習合も蘇我・物部といった外来の仏教と土着の神々との激しい争いの果てに本地垂迹の形で落ち着いたのであった。

 人間が頭で考えた思想は長続きしない。ソビエト連邦も七五年で崩壊し、その後に蘇ったのはロシア正教であった。わが国の宗教も明治政府が国策のために神仏分離を行った結果生気を失い、神社仏閣は観光での生き残りを模索している。私は観光課の職員を前にして、そんなことを考えながら精進料理をいただいていた。

『SOGI』119号 青木新門

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