新門随想

(15)善光寺

 

 長野市での講演の帰路、何かに背中を押されるように善光寺を訪れた。
「牛に曳かれて善光寺参り」ということわざは、誰がいつ頃言い始めたのかわからないのだそうである。おそらく十牛図のいわれを知っていた僧あたりが言ったのが、一生に一度は善光寺参りせねばならないという当時の信仰とともに全国に広まっていったのであろう。

 善光寺は一宗一派に属していない。寺内の院坊は天台宗や浄土宗に属しているが、善光寺そのものは何宗にも属していない。阿弥陀如来に宗派などあるはずがないと思っている私は、そのことだけで善光寺に好感を抱くようになっていた。

 芭蕉が「更科紀行」の途中、善光寺に参詣して詠んだ句がある。

   月影や四門四宗もただひとつ

 この句にみられるように、善光寺は仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であったことから、宗派の別なく古来より人々に信仰されてきたのである。善光寺の本尊は一光三尊阿弥陀如来像で、これがまた私の気に入っているところである。三尊が一つの光の中に納まっているのがいい。その姿は、本堂の中の瑠璃壇の上に絶対秘仏として安置されていて、住職ですら目にすることはないという。

 浅草の浅草寺の本尊も秘仏である。なぜか秘仏のほうが大衆の心を掴むのか、両寺とも古来より参詣者が多い。大衆は難しい教学を説教されるより神秘的なものを有難がる傾向がある。そのことを近代知識人は非科学的な愚かなことのようにみなすが、それは決して愚かなことではなく、大衆は宗教の本質を本能的に嗅ぎ取っているのかもしれない。親鸞も阿弥陀如来を言葉では説明できない不可思議光と称していた。

 善光寺の本堂の右側に「御戒壇入口」という看板がある。御戒壇巡りといって、瑠璃壇床下の真っ暗な地下道を巡り、中ほどに懸かる錠前(カギ)に触れることで、錠前の真上におられる秘仏の阿弥陀如来と結縁を果たし、臨終の際にお迎えに来ていただけることを約束されるという仕掛けになっている。
 私は御戒壇の闇の中を歩いているうちに、アメリカの精神科医キューブラー・ロスの言葉を思い出していた。「末期患者が最も安心するのは、何らかの方法で死を克服した人が患者の側にいることである」と彼女は言い残している。そのことは死の不安におののく末期患者に安心を与えることができるのは、死の実相を知った人が側に居ればよいということになる。
     *
 先日、岐阜県の郡上八幡のお寺へ講演に行った時のことであった。講演を終えて控室にいると、一人の立派な紳士が現れ、「実は私は医師でして、東京の大学病院に三〇年間勤務していましたが、この町で町医者をしています。東京の大学病院では教授や先輩たちから一分一秒でも延命することが医師の使命であるように教わり、私もそう信じて医療に携わってきました。そんなある日、一人の老婆が臨終を迎えていた時、私はモニターを見ていました。すると何か呼びかけられたような気がしましたので、振り返って近づくと、二、三日口も利くことがなかった老婆が『先生、こっち見て!』と言ったのです。看ると、老婆は目に微笑みをたたえて息をひきとりました。私はハッと思い、大学病院を辞め、故郷へ戻り往診医をしています」と目に涙を浮かべて話された。

 私は感動して話を聞いているうちに、延命医療が壁にぶちあたっている医療現場の現状を目の当たりに見る思いがした。私が『納棺夫日記』の中で「死は医者が見つめ、死体は葬儀屋が見つめ、死者は愛する人が見つめ、僧侶は死も死体も死者もなるべく見ないようにして、お布施を数えているといった現状があるかぎり、今日の宗教に何かを期待する方が無理と言えよう」と僧侶の姿勢を嘆いて書いたのは二〇年前のことである。今日の無縁社会にあっては、臨終の現場には愛する人も立ち会わず、死を看取る医者ぐらいは見ているのかと思ったら、医者はモニターを見ていたのであった。
 死に往く人には、激励は酷で、善意は悲しい。説法も言葉もいらない。きれいな青空のような瞳をした、すきとおった風のような人が側にいるだけでいいのである。 

『SOGI』118号 青木新門

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