新門随想

(14)葬式は、要らないか

 

 先日あるお寺へ出講した時、質疑応答があって「最近『葬式は、要らない』という本が話題になっていますが、先生はどう思われますか」と質問された。私は「まだ読んでいませんので何とも言えませんが、葬式はなくならないでしょう」と応えるしかなかった。

 さっそく駅の書店で買い求め、帰路の車中で一読した。著者はオウム真理教に関わっていたとかで一時話題になった宗教学者島田裕巳氏であった。一読して最初に思ったことは、「葬式は、要らない」と刺激的な題が付けられているが、内容は、完全に要らないと言っているわけでもなく、出版元の幻冬舎が本を売るため話題性を狙って名づけたようである。

 しかし気になる箇所も何箇所かあった。日本の葬式費用は平均で二三一万円、アメリカの平均は四四万円、韓国は三七万円と具体的に数字を示し、世界の中で飛びぬけて高いことが強調されているのが気になった。この二三一万円の中に香典返しや飲食料支出まで含まれているのに、香典収入は組み込まれていないのである。もし香典収入を差し引いたら、アメリカや韓国とほとんど変わらないのではないかと思った。

 香典は日本独特の慣習である。今では施主側で香を準備してあるが、昔は会葬者各自が香を持参して焼香したものである。香典という言葉の由来でもあるが、昔の村落共同体の葬儀は、死者が出ると葬式の全てを村人が参加して行っていたのであり、米や小豆や野菜などを持ち寄り、料理なども村人が作っていたのである。そうした労力や物品の提供が香典という形として助け合って生きる相互扶助の精神を残したといえる。私が葬式の現場にいた頃は二百人以上の会葬者があった場合、香典料で葬式費用がほとんどまかなわれていた。

 会計責任者は香典帳を付け、買物帳に出金を記載し、喪家に負担がかからないよう気づかっていた。地方では今日でもこの風習は生きている。こうした相互扶助の精神が島田氏の本には欠落していた。氏が指摘するように、葬儀費用が高騰した要因として仏教界や葬式業者の側にも問題があるのは事実である。しかしバブル経済時代の物価の高騰は、葬儀業界ばかりでなくあらゆる業界が直面している問題である。包装を豪華にして付加価値を高め、商品に高級感をもたせて商売をしていた百貨店が倒産の憂き目にさらされている。葬式費用の問題など市場原理に任せておけばよいのである。まして宗教学者を名乗る人が宗教の真偽を問うのならいいが、鬼の首を取ったかの如く高いとか安いとか発言するのはいかがなものかと思ってしまう。
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 戦後の葬式の変化で特に気になるのは、以前はご本尊中心の祭壇であったのが、故人の遺影中心の祭壇に様変わりしていったことだった。また、お通夜などは死者と生者が語り合う場であったのが、告別式へと変化したことだった。個人主義を基盤とした近代化が進み、資本主義社会が定着すると、何ごとも人間中心となり、やがて人間の欲望が前面に出て派手になったことも費用を高くする要因ともなっている。

 悲しむべきことは誰も宗教(仏教)を信じていないことである。そんな会葬者を前にして、僧侶は仏教を信じていることを前提に後の世へ送る作法で葬式を行っているのである。その乖離が問題なのである。現在でもわが国の葬式の八割以上は仏教葬で行われているのである。その仏教葬に仏教が正しく機能していないところに問題があるように思う。

 人と人のつながりを無くした無縁社会に相互扶助など成り立たない。地域社会とコミュニケ―ションがない独居老人が増え、生活保護世帯が一二八万にもなっている(二〇〇九年一〇月現在)。昔は刑務所の独房は規律違反者が入れられるものだったが、今の若い受刑者は自ら望んで入りたがるという。個人主義社会が個室に閉じ籠もる若者を生んでいるのである。そんな人間関係になじめない人間が増えた社会で、引き取り手がない無縁死や直葬が増えても不思議でもない。葬式費用が高いからだけで直葬が流行るのではない。葬式をしても会葬者がないのである。

 仏教は縁起を説く。縁起とは、仏教の根幹をなす思想で、世界の一切は直接にも間接にも何らかのかたちでそれぞれ関わり合って生きていることをいう。また仏教は、人間の欲望や自我を棄て、報恩感謝を説く。人生で出遇った人への感謝の心やお蔭様の心を失って自己中心に生きるとき、人は〈葬式は要らない〉と思うようになる。仏教界は島田氏の本『宗教は、要らない』などに目くじらを立てる暇があるのなら、無縁社会にこそ仏教が必要であることを説くべきであろう。

『SOGI』117号 青木新門

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