新門随想

(13)着陸態勢

 

 先日飛行機に乗っていて、ふと気づいたことがあった。羽田から鹿児島へ向かう便に乗った時だった。飛び立つ時は急上昇して水平飛行になるのに一〇分ほどだが、水平飛行から着陸態勢に入ってから着陸するまで二〇分以上かかるということに気づいた。専門家にしてみれば、そんなことは徐々に速度を落としていくわけだから当然のことだと言われるだろうが、私には新鮮な気づきであった。

 人生もそうあるべきだと思ったからだった。
 インドのヒンズー教には、人生の過ごし方として、四つの人生の季節、四住期という考え方がある。一番目は学生期といって、ひたすら学ぶ時期、二番目は家住期といって仕事と家庭に精一杯世俗的に過ごし生計を営む時期、三番目は林住期といって自分の人生を反省し林に住んで瞑想する時期。この三つを経て四番目には、家長を長男に譲り巡礼の旅に出る遊行期を迎える。

 ブッダも四住期の過程を踏襲している。二九歳までに学生期、家住期として過ごし、二九歳から三五歳まで苦行の林住期を過ごし、ブッダガヤの菩提樹の下で悟り、終焉の地クシナーガルで亡くなるまでの四五年間を遊行期して過ごされた。ブッダは着陸態勢に入ってから大涅槃の着地まで八〇年の人生の半分以上を遊行期として費やしておられる。

 以前、上野動物園の園長を長く務められた中川志郎氏と対談したことがあった。その時氏は「自然界の動物は平均で五〇%余力を残して死んでいる。しかし動物園では人間の科学技術で寿命一杯生かそうとする」とおっしゃったのがとても印象的だった。
 インドの四住期の思想は、人間も自然の一生物として自然の摂理に従って生きる生き方を表している。この思想は中国で隠居という制度を生み、日本にも導入され法制化された時期もあった。

 昭和六二年の厚生白書では、高齢化社会の到来を高らかに宣言し、人生八〇年の時代を迎えるにあたって、三〇年も寿命が伸びた残りの人生をいかにいきいきと生きるかという思想で展開されていた。要するに人生五〇年という考えを改め、今までの生き方をそのまま三〇年間延長させる思想で、社会全体のシステムや構造を変革しようとするものであった。それには行政だけでは対応できないから民間の力も大いに活用して推進すべきだと旗を振っていた。その結果、医師は延命思想で医療を行い、生涯学習なども行政指導で行われるようになり、民間では「いきいき」とか「ゆうゆう」と名づけられた雑誌が生まれ、高齢者の欲望をくすぐるような旅行や食品や衣料や趣味や生活の仕方まで、消費経済に組み込まれて展開されてきたのであった。

 ここにみられるのは、着陸態勢のない人生の過ごし方であった。水平飛行のまま飛び続け、「ある日突然ぽっくり死ねたらいい」などとうそぶく生き方であった。ある日突然死ぬのがよいのであれば、後ろからはねられる交通事故死が最もふさわしい死に方と言えよう。
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 私は人生最高の幸せは、幼い時期は父母の愛の中で安心して育ち、よい伴侶に出遇って安心の社会生活を送り、老後を安心して生きて、死を安心して迎えることだと思っている。要するに人生の生・老・病・死の全過程を安心して生きることが人生最高の幸せだと思っている。しかし今日の多くの人は、生にのみ価値を置き、老も病も死も悪のようにみなして生きている。だから老や病や死に直面すると、哀れなほど戸惑いうろたえる。

 マザー・テレサが来日して去る時「こんなに豊かでこんなに美しい国なのに、どうして日本人はこんなに暗い顔をしているのでしょう」と言い残したが、まさにそんな暗い顔の社会になっている。
 敬虔なクリスチャンであったアンデルセンは肝臓癌で亡くなる臨終時にこんな言葉を残している。
「なんと私は幸福なのだろう。なんとこの世は美しいのだろう。人生はかくも美しい。わたしはまるで苦しみのない国へ旅たって往くかのようだ」

 宗教は水平飛行より着陸態勢に入ってからの生き方を重要視する。秋の紅葉が美しいのは、気温変化に木々が対応しているからである。冬の木立ちが美しいのも、葉を落として命を生きようとしているからである。
 ブッダの着地も見事であった。「木々は美しい。この世は美しい。人の命は甘美である」とアーナンダに語りかけながら、終焉の地クシナーガルへ向かって歩いて往かれた。

『SOGI』116号 青木新門

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