新門随想

(12)お墓の話

 

 私は車で旅をしている時、墓地が見えると車のスピードを緩める癖がある。そしてその墓地が新しく造営されたものでないとわかると、車を止めて墓地へ入っていくのである。
 そこにある墓石の形で時代がわかる。たとえば、苔むした五輪塔が見られるような墓地は平安時代末期から鎌倉時代にかけて墓地として使用されていた場所であったといえる。五輪塔は、古代インドの宇宙観を顕したもので、地・水・火・風・空の五大元素を四角や円や三角や半月や宝珠の形に象徴化して造られている。その普及は空海の真言密教の影響が強く、空海亡き後、高野聖による高野山への勧進なども大きく影響していた。高野山奥の院には数十万もの墓があって、古い墓はほとんど五輪塔である。

 やがて密教が衰退し、空也や源信などの浄土思想の流行とともに墓にも変化が見られるようになる。鎌倉時代になると法然や親鸞や道元や日蓮が現れ、いわゆる鎌倉新仏教が興ると、五輪塔に刻まれていた梵字や「地・水・火・風・空」が「南・無・阿弥・陀・仏」と刻まれたり、「妙・法・蓮・華・経」と刻まれたりするようになった。

 しかし、浄土思想には念仏往生のことは説かれていたが、墓のことはほとんど触れられていなかったため、墓はあまり重視されなかった。
 やがて江戸時代末期になると、幕府により儒教が重んじられ、檀家制度とともに儒教儀礼の影響が強くなり、位牌型の墓に「先祖代々の墓」とか「何々家の墓」と、宇宙への広がりをもつ五輪塔から見ると狭隘な「家」中心の墓へと変様してゆく。儒教によれば、人は死ねば魂魄は肉体から離れ、魂は天に向かい、魄は地に帰るとされている。そしていつの日にか魂と魄が出遇う時、再び命が蘇るとされた。そうした再生の思想で秦の始皇帝の「兵馬俑」の墓などが造られていたし、エジプトのピラミッドも似たような死生観であった。

 このように墓も時代の思想や死生観で造られていて、墓地に踏み入ると、この地の人々がどんな死生観で生きていたのか見えてくる。
 先日も沖縄へ行った時、タクシーで那覇の街を走っていると、道路脇に墓が見えたので車を止めてもらった。けげんな顔をしている運転手をしり目に私はタクシーを降りて、墓地への階段を上がった。立派な亀甲墓が三基並んでいた。

 沖縄の亀甲墓は、人は母の胎内から生まれ、死ねばその胎内へ戻るという「母体回帰」の思想から生まれたと言われている。そういえば正面の入口は産道口にも見え、屋根は妊婦のお腹のようにも見える。屋根が亀の甲羅状に造られているのは、祖先は海から亀の背に乗ってやってきたと伝わる祖先観とオーバーラップしているようである。

 沖縄ではもともと風葬が主流で、亀甲型の墓室内に遺体を安置し、数年後に親族(主に長男の嫁)によって洗骨をして大きな骨甕に納め、墓室内奥の棚に納めていた。ゆえに入口は人がやっと潜れるほどだが、石室内は六畳一間ほどの広さがある。今日の沖縄では火葬が本土同様に普及し、骨壺も小さくなったことで小さな亀甲墓も見られるという。こうした墓は台湾や中国の福建省などでも見られる。春の彼岸には各地でご馳走を用意して、その家の亀甲墓の前で食事をしたり飲酒をしたりする風習が、今では少なくなったが、現在も島の一部に残っているという。

 私が写真を撮って、待たせてあったタクシーへ戻ると、運転手が話しかけてきた。
「沖縄戦の時アメリカ軍の艦船がトーチカと誤認して砲弾を浴びせた。実際日本兵がトーチカ代わりにしたこともあったため、上陸した海兵隊は亀甲墓を見つけ次第火炎放射した。そのため、防空壕代わりにしていた一家が焼け死んだケースも多かったのです」と。

 世界にはいろいろな風習がある。墓など造らない国もある。インドでは古来より河原で荼毘して、遺骨は川へ流して墓など造らない。チベットの鳥葬も、ハゲワシが食べ残した骨を砕いて麦粉と混ぜて団子にして与えてしまう。骨も残さないから墓など必要としない。

 そんなインドやチベットで生まれ育った仏教が我が国へ伝わって、墓が重要視されている。そのことを問題にする人もいるが、風習とはその国の風土から生まれる。風土に馴染まない外来思想は、定着することなくやがて消滅してしまうのが常である。
 そんなことを、那覇空港を飛び立った機上で考えていた。

『SOGI』115号 青木新門

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