新門随想

(10)美しい視点

 

 視座をどこに置き、視点をどこに定めるかで、同一物が醜く見えたり美しく見えたりすることがある。
 宮沢賢治の一連の詩作品が今も新鮮な光を放っているのは、賢治の視点が観自在菩薩のよう自在の眼で世界を認識していたからにほかならない。賢治の眼が今微生物の世界を追っていたかと思うと、次の瞬間には太陽系、銀河系、全宇宙へと移動し、瞬時にしてその眼は素粒子の世界へ移っている。

 思いやりや優しさは視点の移動があって生じる。思いやりとは、相手の立場に立つことである。賢治の詩「永訣の朝」も、息を引きとろうとする妹とし子の魂と一つになっていた。有名な『雨二モマケズ』という作品も、あらゆる人への思いやりの詩である。「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と『農民芸術概論綱要』の序論で高らかに宣言したのも、世界全体への目配りからくる優しさにほかならない。

 私が映画「おくりびと」の主演俳優本木雅弘君と共感したのも〈蛆が光って見えた〉その視点の共振であった。彼が二七歳のときインドを旅し、その旅行記に『納棺夫日記』の中の一文を引用させてくれという申し出があった。快諾してしばらくしたら、『HILL HEAVEN』と題された本が送られてきた。インド・ベナレスのガンジス川の岸辺で送り火を手にした上半身裸の彼の写真に「蛆も命なのだ。そう思うと蛆たちが光って見えた」という一文が添えられてあった。それは、一人暮らしの老人が真夏に亡くなって、一カ月も放置され蛆が這い回る遺体を私が納棺に行ったときの文章の一部であった。

 それから間もなく本木雅弘君から『納棺夫日記』を映画化したいと申し出があったとき、私は、 「死や死体やお棺などを真正面から取り上げて映像化しても暗くて重い作品になるのではないでしょうか。伊丹十三の『お葬式』のような映画もありましたが、厳粛な葬儀を茶化したような作品は嫌ですね。しかし本木さん、貴方がインド・ベナレスで〈ここでは生と死があたりまえのように繋がっている〉と実感し〈蛆が光って見えた〉という文章に眼が止まった視点、その視点で映画化すれば美しい映画が作れるかもしれませんね。しかしそうした視点を持つ人は滅多にいないわけで、本木さん、貴方しか『納棺夫日記』の映画化はできないでしょう」
 とエールを送った。

 彼はその後十数年の歳月をかけ、幾多の紆余曲折を経て、映画「おくりびと」を世に出した。
 普通、蛆は光って見えない。気持ち悪いものだし、嫌なものである。しかし生死一如の視点で見たとき、蛆も光って見える。例えば、執着と憎しみと争いが渦巻く醜い地球も、人工衛星「かぐや」の視点から見たとき、そこに見られるのは、境界も国境もない、一つの生命体のような美しい地球である。
      *
 宇宙空間に四カ月半の長期滞在を終えた日本人宇宙飛行士若田光一さんは七月三一日、ケネディ宇宙センターに無事帰還した。
 帰還する前の二八日、日本の少年たちの質問に応えて、無重力状態でのいろいろな実験をしてみせる若田さんの映像がテレビに映っていた。この映像を見ていた私は、一つの実験に釘付けになった。それは、水と油の実験だった。水と油は地上では混ぜ合わせても水と油の比重の違いから分離してしまう。しかし無重力状態では、水と油は混ぜ合わせたままの状態になっていた。

 私が水と油の実験になぜ強い関心をもったかといえば、このテレビを見る少し前にイスラエルとパレスチナの紛争のニュースを見ていたからであった。この地球上で人間は宗教間・民族間の紛争を果てしなく続けてきた。時には思想や武力で水と油を混ぜ合わせるように共和国をつくっても連れ、しばらくすると、たとえばユーゴスラビアのように宗教や民族間で分離して対立し相争うこととなる。

 この問題を解決する道を説いたのがブッダであった。仏教は無我を前提に成り立っているのである。無我の境地は無重力の世界に似ている。しかしこの地球上で水と油が共存する世界を望むこと自体無理があるのだろうか。それにしても宇宙から見る地球は美しい。

『SOGI』113号 青木新門

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