新門随想

(9)紫陽花

 

 私が『納棺夫日記』を著したのは、今から一六年前の五五歳のときであった。あの頃の私は、七〇歳になったら静かに生きていたいと思っていた。
 ところが七〇歳を過ぎた今頃になって、思ってもいなかった事態に遭遇することとなった。今年の二月に映画「おくりびと」がアカデミー賞を受賞したため、原作者としての名を封印していたにもかかわらずマスコミにあぶりだされ、講演依頼や執筆依頼が殺到し、多忙を極めることとなった。

 多忙といっても私の多忙の何十倍もの仕事を嬉々としてこなしている政治家や実業家もおられるだろうし、人気作家や芸能人などもいることだろう。多忙の軽重は能力や経験の度合いによっても違ってくるだろうし、価値観によっても忙しさの感じ方は違ってくるだろう。「忙」という漢字が「心」と「亡」の合成語であることから、心を亡くす譬えによく使われたりするが、心ほどあいまいなものはない。「我思うがゆえに我あり」と言った西洋の哲人がいたが、そんな我のことだろうか。何を亡くすことなのだろうか。ただ忙しすぎると、何か大切なものを忘れているような気持ちになることは確かである。

 誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが みつけた/ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた/むかしの むかしの 風見の鳥の ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ はぜの葉あかくて 入日色/ちいさい秋 ちいさい秋 ちいさい秋 みつけた

 サトウハチローの詩「ちいさい秋みつけた」の一節である。彼は雄鶏のとさかのようなはぜの葉一枚に天下の秋を見つけたのだろうか。われわれは日頃小さな草花や小さな虫などには気づかぬままに過ごしている。特に仕事第一に行動しているようなときは気づかない。小さな命のいとなみに気がつかないということは、己の命にも注目していないことでもあろう。自己中心的でありながら自分の命をも粗末にする人が多いのも、命を見失っているからかもしれない。
      *
 昨夜一週間ぶりに帰宅して、追いかけられるような重圧感を何とかしなければと思いながら床についたが、なかなか寝付けなかった。しかし翌朝、そんなことを考えていたことなど忘れたかのように次の講演先へ向かっていた。
 ふと道端に咲く紫陽花に眼が止まった。
 空梅雨が続いていた一週間前に通ったときには気づかなかったが、雨上がりのせいか、ハッと思うほど新鮮に見えた。その鮮やかさは、赤や青や白や黄色の蝶が一塊になって止まっているようで、今にも飛び立ちそうな感じであった。

 紫陽花を見ると思い出すことがある。
 以前私は、文学好きなお寺の住職と親交があって、その寺を訪れては酒を酌み交わして文学談義をしていたことがあった。その寺の庭には、いろいろな種類の紫陽花が多く植えられていた。住職が亡くなってからも何度かそのお寺を訪ね、境内の紫陽花を眺めながら、前坊守の点てるお茶をいただいたりしていたが、やがて疎遠となっていった。

 一〇年も経たある日、どうしておられるかと訪ねると、九〇歳を超えた前坊守がにこにこと迎えてくれた。
「お元気そうで」と挨拶すると、
「あんた、どなたさんでしたか?」
という返事が返ってきた。
「青木新門ですよ、よくお邪魔した」        
「あれぇ、そうやったかいね。最近こうして忘れるもんやから、誰を見ても新鮮に見えるが・・ハハハァ・・」

 私は絶句すると同時に、そうか、忘れるから新鮮に見えるのか、と感動を覚えた。そして道元禅師の言葉を思い出していた。
「仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふといふは、自己をわするるなり」―『正法眼蔵』
 ここで道元が説いているのは、人間生まれてからいろいろな知識を身につけ、それが自己だと思い、そんな自己にとらわれて生きているが、自己を忘れるならば、ありのままの真実に出会うことができるということである。
 前坊守の言葉が仏語のように聞こえた。あの日も境内に紫陽花が咲いていた。

『SOGI』112号 青木新門

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