新門随想

(8)須弥壇

 

 私は葬儀の知識も宗教の何たるかも知らないまま葬式の現場で働くようになったわけで、最初は戸惑いの連続であった。
 ある日、お寺の御堂で葬式の飾り付けをしている時だった。住職が現れたので内陣の仏様が安置されている台を指差して「あの祭壇ですが……」と何か言おうしたら、それを遮るように「あれは祭壇ではない、須弥壇というのだ」と一喝された。そして正座させられ、須弥壇の由来を聞かされた。

 古代インドの宇宙観では、世界の中心に須弥山(サンスクリット語では、スメール山)という山があって、仏教にもその宇宙観が取り入れられ、その山の頂上で仏が永遠に法を説いているとみなされてきた。その由来からご本尊を安置する台を須弥山に模して作り「須弥壇」と称されているのだという。「葬式に携わっているのなら、それくらいのことは知っておけ」と住職に言われた。

 そのことがいつまでも頭に残っていた。やがて、チベット仏教では、架空の山だと思っていた須弥山と実在するカイラス山とを同一視していることを知って驚いた。カイラス山はヒマラヤの最西端にある単独山で、標高六六五六メートルの未踏峰の霊山である。インドでは、須弥山のモデルとみなされてきた。神が降臨したとするラマ教、シバ神の生地とするヒンズー教。教祖が修行したとするジャイナ教。仏が永遠に法を説いているとする仏教。アジア四大宗教の聖地中の聖地の霊山とみなされてきたという。私は一度見て見てみたいものだと思っていた。その思いが通じたのか、写真家の寺田周明氏に誘われ、長年の夢がかなった。

 しかし、安易な気持ちで出かけて面食らった。標高四千メートルのチベット高原を二週間もかけてカイラス山の麓まで辿り着いた頃は完全な高山病患者になっていた。何度も途中で引き返そうかと思いながら、五千メートル級の峠を越え、息も絶え絶え辿り着いて見上げたカイラス山は、まさに霊山と称されるにふさわしい霊性を漂わせていた。インド人やチベット人がこの山の頂上で仏が法を説いていると信じたのもむべなるかなと思った。
     *
 最近になって、霊山カイラスを思い出すことがあった。招かれて京都・花園にある妙心寺へ出向いた時のことである。
 妙心寺は臨済宗妙心寺派の大本山である。講演まで時間があったので境内を案内してもらった。広大な境内には重要文化財の山門、仏殿、法堂などを中心に多くの塔頭寺院が立ち並び、一大寺院群を成している。案内僧の説明を受けながら石畳の参道を伝って法堂へと向かった。法堂の天井に描かれた狩野探幽の有名な雲龍図を観るためだった。

 薄暗い堂内へ入ると、一群の参観者が天井を見上げて説明を受けていた。私は天井に届くほどの大きな須弥壇に気がついた。何の飾りもない壇だけの木造の須弥壇である。一般の寺院では、須弥壇の上には仏像やご本尊が安置されているのが普通である。

 妙心寺の開山は関山慧玄である。慧玄は他の高僧のような語録もなければ、生前の肖像もなく、直筆の書状も一切残さなかったという。また慧玄の死に様は見事であった。突然旅の支度をして弟子に行脚に出ると言い出し、庭の井戸の辺まで追ってきた弟子に遺戒し、立ったまま息をひきとったという逸話が残っている。その遺戒が成文されて「無相大師遺誡」と称し今日でも読誦されている。そんな話を聞きながら私は、関山慧玄は禅の以心伝心・不立文字を身につけた真の僧であったに違いないと思った。そしてそんな僧だけがこの須弥壇の上に座るにふさわしいだろうと思うのだった。

 私がカイラスを眼前にした時、山がそこに存在するだけで法を説いているように思えた。真の僧も存在するだけで法を説くという。ブッダの遺戒は「法に従え」であったが、関山慧玄はそのブッダの遺戒を忠実に守り従った真の僧であったに違いない、と思いながら法堂を後にした。

『SOGI』111号 青木新門

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