新門随想

(7)映画「おくりびと」と『納棺夫日記』

 

 映画「おくりびと」が日本の映画賞を総なめにし、米国アカデミー賞まで受賞してしまった。
 主演俳優の本木雅弘君から一月二三日に「ノミネートされました」と電話があった時、私は「オスカーを必ず取りますよ、蛆の光はオスカーの黄金の光につながっています」と言った。とっさに口を突いて出たのだが、私はその時「一隅を照らす、これ国の宝なり」という最澄の言葉を思い出していた。そしてノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサがカルカッタの「死を待つ人の家」で死者を看取りながら一隅を照らしたように、納棺もまさに一隅を照らす行為に他ならないと思ったからだった。そんな思いから「絶対オスカー取れますよ」と言ってみたものの、何の裏付けもなかった。ただ金融危機を背景にオバマ大統領を選んだアメリカの価値観の変化が後押しするかもしれないと思った。

 思いは的中し、うれしくなって本木君に心からの喝采を送った。ところが二月二三日一時にアカデミー賞受賞のニュースが流れると、クレジットタイトルに私の名前も出ていないのに何がどうなったのか、津波のようなマスコミの取材に遇い、面食らってしまった。その上取材に来た記者たちのほとんどは『納棺夫日記』と「おくりびと」の違いがわからないのか、いくら説明しても私の意に反する記事や映像が流れる結果となった。
    *
 この映画が評判になるにつれ「なぜ原作者の名が記されてないのか」とよく聞かれた。
『納棺夫日記』を読んでいた人からは原作ではないかと問われた。私はその度にあいまいな返事をしてやり過ごして来たが、それは私の生き方に関わる問題であった。

 平安時代中期に『往生要集』を著した恵心僧都源信という高僧が比叡山にいた。紫式部の『源氏物語』に「横川の僧都」として登場している。後の法然や親鸞にも影響を与え、親鸞は七高僧の一人として讃えている。
 源信は弱冠二十歳前後、当時の村上天皇の前で仏法を説く講師に選ばれ、下賜された褒美の品(織物)を一人故郷で暮らす母親へ送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えてその品を送り返してきた。その和歌は、

 後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ

 母親の諌めの言葉で我に返った源信は、横川の恵心院に隠棲して〈後の世を渡す橋〉となることを選んだのであった。

 私は納棺の現場で「人は死んだら何処へ往くのだろうか?」と真剣に考えるようになっていた。やがて死の実相を死に往く人や死者たちから教わり、死後の世界を私なりにイメージとして描けるようになった。それは蛆も光って見える塵一つ無い美しい世界であった。これが宗教の言う〈永遠〉というものであり、仏教の説く〈浄土〉なのだろうかと思った。うれしくなって〈後の世を渡す橋〉の一助になればと『納棺夫日記』を著したのであった。

 しかし、映画「おくりびと」では『納棺夫日記』の第一章、第二章を描いているだけで、私が最も力を入れて書いた第三章〈後の世を渡す橋〉の宗教を扱った部分が完全に削除されていた。要するに〈この世を渡る〉納棺師が描かれていた。そこに見られるのは、現実の仏教や僧侶には拒否反応を示しながらも、死者と生者の絆を確かめ合うといった癒しの構図であった。すなわちヨーロッパ近代思想の人間愛で終わっていた。人は宗教を見失ったとき、癒しを求める。そんな現代人の心情に見事にフィットしたのが「千の風になって」であり「おくりびと」であった。私は著作権を放棄してでも『納棺夫日記』と「おくりびと」の間に一線を画すべきと思った。妥協することのできない一線であった。

 この世を安心して生きるには、後の世も安心であることが絶対条件なのである。それは私が納棺の現場で死者たちから教わった真実であり、ブッダが説く真理である。
 だが私は、映画「おくりびと」を過小評価するつもりは微塵もない。映画作品として稀有な傑作であることはアカデミー賞が証明している。多くの人にぜひ観てもらいたいと思っている。そして、送り人に送られた先が気になる方は私の『納棺夫日記』を読んでいただけたら幸いである。

『SOGI』110号 青木新門

広告
新門随想に戻る