私が住む富山では、立山連峰に初冠雪があるのは一〇月の中旬で、その後一カ月ほどかけて山麓まで雪は降りてくる。
以前は平野に初雪を見るのは一一月の下旬から一二月の上旬で、降りはじめにはみぞれの季節があった。みぞれは大地に残るぬくもりで雪の結晶が形を崩して降って来る現象だが、大地が積雪に覆われ、冷えるとみぞれの季節はなくなる。だが最近は地球温暖化の所為か、季節はずれのみぞれを見ることがある。
みぞれを見ると、私には必ず浮かぶ詩がある。
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっさう陰惨な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴采のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがとうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
―後略―
この宮沢賢治の『永訣の朝』と題された詩を読むと、私はいつも身震いがする。みぞれの冷気や匂いのない匂いまで伝わってくる。今わの際の妹とし子が高熱にあえぎながら「雨雪取って来て、賢治兄ちゃん」と岩手・花巻の方言で何度も繰り返えす言葉は悲しくも美しい。
雪でもなく、雨でもない、手に取れば水となってしまうみぞれ。
空から落ちてくるその一瞬一瞬をフイルムのコマのように静止させてとらえるなら、雪であったり、雨であったりするわけだが、それを時間の中へ入れると間断なく変化してゆく状態となる。こうした変化を無常という言葉で表現し、世の中のすべての事象が瞬時もとどまらず移り変わってゆくことを諸行無常といって、特にわが民族は好んで用い、四季の移り変わりや人の生死を、うつろいやすいもの、はかないものとして美しく表現してきた。
〈みぞれ〉という言葉は、英語には見当たらない。SLEETという単語が辞書にあるが、それは凍雨の意味で、雨とも雪ともつかないみぞれ現象の用語ではない。要するに英語圏では、みぞれのような、雨でもなく雪でもないといったあいまいな事象は用語として定着しなかったのであろう。刻々と変化してゆく現象を言葉としてとらえることは、英語圏では苦手とするところである。
そのことは生死をとらえるときにも同じことがいえる。西洋では、生か死であって〈生死〉という思想はない。その点東洋の思想、特に仏教は、生死一如としてとらえてきた。生と死の関係をみぞれの中の雨と雪の現象でとらえるなら、〈雨雪〉は〈みぞれ〉であって、雨と雪を分けるとみぞれでなくなるというとらえ方となる。
しかし今日のわが国は、明治以来西洋の近代思想を導入し科学的思考が身に着き、生と死を峻別し、死を忌むべき悪としてとらえ、日常生活の中でも思想の中でも死を排除し、虚飾の生を謳歌して生きている。そんな現代人の不幸は誰もが必ず死ぬという事実に直面した時、絶望的な矛盾に出会うことになる。
自分だけは死にたくないと思う我執の眼には死は醜悪に見える。だが死の実相は、生死一如の美しい世界なのである。
我執の眼には、みぞれも暗く陰鬱である。だが賢治の眼には、みぞれも死も、透明な美しいものと映っていた。
『SOGI』108号 青木新門