新門随想

(4)高野山

 

 久しぶりに高野山を訪れた。
 以前に来た時は、宗教にも寺院や墓にも全く関心もなかった頃で、鬱蒼とした杉木立の中の無数の墓の間を歩いた記憶がかすかに残っている程度であった。しかし仏教に関心を抱くようになり、司馬遼太郎の『空海の風景』などを読んだりしているうちに、いつかは再訪したいと思うようになっていた。
 この夏、第三九回部落解放・人権問題夏期講座の講師を依頼された時、会場が高野山と聞いて、即座に引き受けた。
 講演を終え、会場の高野山大学を出ると、目の前に高野山真言宗の総本山・金剛峰寺があったが、山門のところで合掌しただけで奥の院へと向かった。 「奥の院」とは弘法大師空海の廟所のことである。その参道には、皇室、公家、大名などの墓が並び、その総数は二〇万基とも三〇万基とも言われている。巨大な五輪塔の武将や大名たちの墓が目立つが、天皇であれ他の宗派の開祖であれ、ありとあらゆる著名な人たちの墓が、その業績や評価と関係なく樹齢何百年の杉木立の間に苔むして並んでいる。
 行けども行けども墓また墓である。
 奥の院に近づいた時、巡礼姿の老夫婦が前を行くのに気づいた。おそらく四国巡礼などを終え、結願したことを奥の院へ報告(納経の形をとる)に来られたのであろう。白衣の背中には「南無大師遍照金剛」とある。
「遍照金剛」とは、空海が遣唐使の留学僧として入唐した時、密教の高僧恵果から灌頂を受けて授かった法号である。一般的には「この世の一切を遍く照らす最上の者」と意味づけられているが、私は「永遠のいのちの光」とイメージしている。
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 空海は入唐前に室戸の洞穴で修行していた時、口に明星が飛び込んできて悟りを開いたと言われている。その時洞穴の中からは空と海しか見えず、その海と空とが一つに溶け合った光の世界が眼前に広がったという。「空海」という名が生まれた瞬間でもあった。
 私はこの空海の宗教体験が重要な意味をもつと思っている。特に恵果との出遇いがそのことを物語っている。
 真言密教の第七祖で唐代随一の高僧といわれていた恵果は、空海に会うやいなや「我、さきより汝の来るのを知り、待つこと久し」と、直ちに灌頂を授け、「遍照金剛」の法号を授与したのである。
 普通二、三〇年の顕教の修行の後、選ばれた者だけが密教の修行に入るのであるが、それでもなかなか灌頂壇へは入れないのである。遣唐使の留学僧も二〇年の修行が義務付けられていたにもかかわらず、空海は恵果に六カ月師事しただけで、後は経典類を集めたり土木工事の技術まで学んで、わずか二年で帰国している。
 ここにみる恵果と空海の関係に、仏法伝承に欠かせない以心伝心の真の姿を見る思いがする。光(仏性)に出遇った者だけが光と感応道交するのである。
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 参道を奥へ進むほど木立は鬱蒼として、墓石などは暗く沈んで見えてくる。ふと空海の言葉が浮かんだ。

  生まれ生まれ生まれ生まれ生の始めに暗く
  死に死に死に死んで死の終わりに冥(くら)し

 空海が著した『秘蔵宝鑰』の序の冒頭にある言葉である。
 浄土系の葬式の時、導師がお棺の前で読誦する句に「流転三界中、恩愛不能断、帰恩入無為、真実報恩謝」というのがある。意味は〈われわれは無始以来迷いの三界を輪廻し続け、この世の恩愛を断つことは不可能であるが、この世に執着する心を棄てて無為(仏の世界)へ入るなら、これこそ真実の報恩感謝の人である〉とお棺の前で僧侶が死者に語りかけているのである。ここでの「流転三界中」のことを、空海は先の言葉で詩的に表現している。
 何度生まれ変わり死に変わっても、光に遇わないかぎり暗いままだが、遍照金剛の仏となられた空海と共にありたいと、人々はここ高野山に墓をつくって納骨したのである。
 奥の院へ着くと、木漏れ日が射していた。

『SOGI』107号 青木新門

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