新門随想

(2)チベット騒乱

 

 チベット騒乱のニュースをテレビで観るたびに、平成一四年にチベットを旅した記憶が蘇ってくる。
 チベット人は自国のことを「蓮華の国」と言ったりする。ヒマラヤ山脈や崑崙山脈の雪山を白蓮の花びらにたとえて、自分たちは蓮華台に住む選ばれた人間だと思っている。

 しかし真の蓮華台に上がるには仏にならなければならないから、今生では無理だとしても、何度生まれ変わっても功徳を積んで、いつかは仏になって蓮華台の上に座りたいと思っている。チベット人の多くは、実際そう信じて「オン・マニ・ぺメ・フム(蓮華の宝珠に幸いあれ)」と真言を唱えながら今日まで生きてきたのである。

 僧侶による最初に騒乱のあったラサの街の中央にポタラ宮殿がある。ポタラの語源はサンスクリット語で、インドで古くから観音菩薩が住むとされてきた山の名である。漢訳仏典では補陀落山とある。その補陀落山にちなんで名づけられたポタラ宮殿は、観音菩薩の化身とされるダライ・ラマの居城であった。

 宮殿の建物は白宮と紅宮とに塗り分けられていて、上部の紅宮は歴代ダライ・ラマの黄金のミイラが安置された霊廟を中心に、多くの礼拝堂や瞑想室や儀式用の部屋などで成っている。下部の白宮は俗世を司る場所で、政府の諸官庁や議場や政府高官の住居や食糧倉庫や兵器まで納める倉庫など、千に近い部屋があるという。紅宮・白宮に象徴されるように、チベットは中国侵攻までは仏教を国是とした政教一致の国家であった。

 このポタラ宮殿のあるラサをはじめ、チベットの街のほとんどは仏教寺院の建立が先の門前町である。遊牧民にとって寺がなければ街など必要がなかったのである。チベットという国も、チベット仏教があって国の形が成り立っていた。蒙古の支配下であろうと、清国の支配下であろうと、自分たちが信仰する宗教さえ奪われなければ、他のことは我慢して生きてきた歴史をもつ。そんなチベット人の価値観に対して、物質的発展こそが幸福をもたらすとする思想が容赦なく押し寄せている。

 広場には「文明的建設・黙々勤励」といったスローガンが掲げられ、道路は舗装され、表通りには新しいビルが建ち並んでいる。だがそこに住むのは中国本土から移住してきた漢人たちで、チベット人はひっそりと昔ながらの生活をしていた。あれから六年、青海チベット鉄道の開通もあり、ますます路地裏へと追いやられていることだろう。

 私はふと、現地ガイドのチベット人青年のことを思った。彼は今度の騒乱に加わっているような気がした。彼は道中ほとんど口をきかなかった。何かにおびえているような目で中国人ガイドの指示に従っていた。

一週間ほど経ったある日、私が持参したダライ・ラマ十四世の写真が表紙の『ダライ・ラマ自伝』(文春文庫)を読んでいるのを覗き見して「アッ」と声をあげ、本を取り上げると私のリュックに押し込んだ。見つかったら逮捕されるという。その目は恐怖におびえていた。以来何かと私に近づいて話しかけてくるようになった。

 彼はダライ・ラマ十四世の出身地である青海省の出身で、父や叔父など親族六人がチベット動乱や文化大革命のとき殺されたり獄死したりしたという。日本語をどこで習ったのかと聞くと、一九歳のとき来日し、新宿のラーメン屋に勤めて日本語塾で習ったのだと言った。帰国して就職活動をしたが職に就けず、同じような仲間と亡命政府のあるインドのダラムサラへ行こうと冬のヒマラヤ越えをしたのだという。しかしダラムサラでも職に就けず、しまいにチベット文字が書けないことを理由にスパイ容疑をかけられ、絶望して再びヒマラヤ越えをしてチベットへ戻ったのだという。彼が憂い顔で何度も繰り返して言った言葉が耳に残っている。

「チベットハ、ナクナリマス」

 チベット民族の悲痛な叫びのように聞こえてくる。津波のように押し寄せてくる物質文明を前に、千何百年もの間守り伝え、心の拠りどころとしてきた価値観が崩壊しようとしている。このたびの騒乱も、耐えに耐えてきた堪忍袋の緒が切れた結果の窮鼠猫を噛む行動のように思えてならない。

 ダライ・ラマ十四世が第一回人民代表大会に招かれて北京へ行ったときの記述が『ダライ・ラマ自伝』にある。当時一九歳のダライ・ラマ十四世に毛沢東が近づき、「宗教は毒だ。第一に、国を衰退させる。第二に、宗教は物質的進歩を妨げる」と言ったという。悲しみの根は深い。

『SOGI』105号 青木新門

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