自分らしい葬儀のデザイン

第1回 変わる葬儀

 

■「寅さん」の葬儀
 
 大船撮影所で渥美清さんのお別れ会が行われました。大船撮影所(当時)に寅さんの映画に出てくる江戸川の土手を実際に作りまして、草や枝も生えています。その上に寅さんの映画のスチール写真が飾られました。ここには何万人かのファン人が訪れました。
 
 このお別れ会の規模の大きさ以上に影響が大きかったのは、死亡直後の個人葬のもち方でした。
 渥美清さんが亡くなられた時は、ご家族の3人だけでご葬儀をなさいました。いわゆる密葬をなさったわけです。亡くなったこともマスコミに知らせず、終わってから通知された。密葬は政治学者の丸山真男さん、俳優の沢村貞子さん、その前には『サザエさん』の作者の長谷川町子さん、などがなさったこともあり、いまではすっかりブームになりました。渥美さんの場合、ご家族での密葬した後で松竹がお別れ会を主催しました。
 
■吉田元首相の国葬
 
 1967(昭和42)年10月31日、吉田茂元首相の葬儀が戦後初の国葬として日本武道館で営まれました。国葬ですから無宗教です。先立って行われた個人葬ではカトリックで営まれたようです。この年というのは中国では文化大革命が行われており、ベトナム戦争の最中、日本でも反対運動が激しく展開されておりました。リカちゃん人形が発売になり、ツィッギーが来日してミニスカートが全盛となった年でもあります。
 
 吉田元首相の国葬をなぜ取り上げたかと言いますと、これが日本での事実上最初の生花祭壇による葬儀でもあったからです。
 白木宮型祭壇が流行したのは戦後になってのことですが、現在では生花祭壇が人気を集めるようになっており、祭壇の話としては、白木祭壇から生花祭壇へ、という流れにあるとすら見えます。
 生花祭壇は、吉田さんの国葬の影響を受け、1970年代から北海道で花開き、80年代に九州に飛び火して、90年代になって全国に波及しました。いま、葬儀の祭壇で花を使うことがかなり流行しております。
 
■生花祭壇の変遷
 
 いまから10年前の90年に俳優の初井言栄さんが亡くなり、葬儀が行われました。これは祭壇というより一種の舞台、初井さんを送るドラマの舞台という感じでした。弔辞をその後亡くなられた大地喜和子さんが読んでいました。お花を敷きつめた生花祭壇で、遺影の下に色花が飾られています。お花がパーッと敷きつめられている感じで、周囲には木が配されております。舞台のような形です。約10年前から、舞台装飾の影響を受けて、生花祭壇が変貌してきました。
 
 91年の松山英太郎さんのご葬儀では、祭壇を真っ赤なバラだけで作りました。真っ赤なバラだけで祭壇を作ったことによって、葬儀の花は白であるという観念が崩れた記念碑的な葬儀の祭壇です。松山さんのときはもう真っ赤なバラだけです。4千本という数のバラです。
 人間国宝の杵屋佐登代さんの葬儀では、庭園をイメージして、両側面に竹などを配して祭壇を作りました。最近は祭壇に緑のものがずいぶん使われるようになりました。世の中の自然志向が反映されているのでしょうか。
 
 いま、焼香に代わって献花方式も人気を集めていますが、この方式にも変化が見られます。ある葬儀の祭壇の下に池が作られ、実際に水が流れておりました。そこで献花をしています。献花は花びらの上の部分だけを水に流すという方式です。
 献花というと、普通は菊とかカーネーションとか白い花を使います。ここでは白だけではなくいろんな色が使われておりまして、それを思い思いに流す形にしています。このように献花のスタイルもいろいろあります。最近は赤い色もあり、多彩な色が使われます。実際にオアシスに会葬者が挿していくと祭壇全体がうまく仕上がる、というようなものもあります。
 
■白木祭壇
 
 これまで、葬儀の祭壇といえば白木祭壇のことでした。
この白木祭壇は根強い人気があり、いまでも定番ともいうべきものです。
 葬儀で祭壇が中心となったのは、それほど古いことではありません。戦前までは葬儀のメインイベントは葬列でした。葬儀のことを「野辺送り」ということからもわかります。戦後、この葬列がなくなり、代わって告別式が登場し、この告別式用の装飾壇として祭壇が誕生したのです。
 祭壇の上部に置かれている寺院風の装飾物は「棺前飾り」といいます。昔はこの後ろに柩が置かれていました。さらにその昔は、これは輿(こし)で中に柩が入って、葬儀の時に火葬場あるいは墓地まで葬列を組んで運んだ葬具でした。今は葬列がなくなったものですから、柩を入れる輿の機能がなくなり寺院風の飾りになっています。それで祭壇が構成されて花が並んでいる。こういうデザインが典型的な形となっています。
 白木祭壇をなくし、生花だけで祭壇を作っている例もありますが、白木祭壇に生花を配した祭壇も多くなっています。
 
■個性的な祭壇
 
 作家の宇野千代さんの葬儀では、遺影の周囲は花額になっておりまして、その下にいろいろな花が並んでおります。きれいな色です。問題は左右にあります。宇野さんは桜が好きだったというので桜の木を持ち込み飾りました。こういうのは非常にユニークです。桜の木の下には宇野千代さんが好んでおりました桜がデザインされた着物が両袖に几帳という形で並んでおります。宇野千代さんという個性が際立った葬儀でした。
 
 三船敏郎さんの葬儀の祭壇には何もありません。映画のセットをそのまま再現した形で、映画のスチール写真をそのまま遺影として持ってきました。それが三船さんの葬儀の祭壇です。祭壇らしくありませんけれども、贅沢といえばこれ以上の贅沢はないかもしれません。
 この亡くなった方の個性を活かした葬儀というのも、ここまで徹底はしませんが、大きな支持を集めるようになっています。
 
■遺体中心の葬儀
 
 高橋和子さんは「サザエさん」のカツオの声をなさった声優の方です。普通の白木の祭壇を用いておりますが、周りのお花の使い方がものすごくカラフルです。そして、布張りの棺を使っております。この棺は、上のほうが半分開いていて対面できるようになっています。遺体を見せるのはいやだという方もいますが、アメリカなどでは葬儀の時にはお一人おひとりとお別れしていただくというスタイルで、そういうスタイルが日本でも出てきたということです。
 
 俳優の千秋実さんの場合は祭壇をいっさい使っていませんでした。お花と棺で構成されているものです。それほど大きなものではありませんが、花の使い方がずいぶん自由な感じで展開されていました。こうした祭壇を使わない装飾というのも現れてきました。柩が中心というのはアメリカ式でもありますが、戦前の葬儀ではあたりまえのこと、遺体中心という原点に還ったものともいえます。千秋さんの棺は、布張りの上のビロード棺です。このビロード棺は、高峰三枝子さんや美空ひばりさんがお使いになってから普及したというものです。
 
 関西の大学の先生のご葬儀では、ご家族で密葬をなさいまして、後にホテルで「偲ぶ会」という形でなさいました。立食形式です。祭壇というのは、遺影写真に少量の花をあしらっただけです。こういうごく簡素な飾りつけの葬儀もあります。
 
■遺影の変化
 
 料亭のご主人が亡くなったのですが、この方は音楽が好きだったんですね。ジャズはクロウトはだしだったようで、演奏している時の写真を遺影として用いました。遺影写真に正装したきちんとした格好のを選ばず、その人を彷彿させるような写真に変わってきています。
 ソニーの盛田さんとサントリーの佐治さんのご葬儀で、大きく新しいものが登場しました。遺影写真が3枚なんです。今までは遺影写真というと1枚だったのが、3枚使われました。これによってかなり立体的にその人が浮かび上がってきますね。3枚というのがミソであろうと思います。これは登場したばかりですが、今後こういう形式は比較的増えてくるのではないかなと思っております。
 
 その人らしさ、ということの表現として、最近は写真がたくさん使われるようになってきております。式場内や式場の入口とかに、その人の生涯の写真あるいは作品、思い出の品とかを展示するメモリアルコーナーを作るのが葬儀の最近の流行…とまでにはまだなっていませんけれども、そういうことがよく行なわれるようになっております。
 
■タブー視されなくなった葬儀の話
 
 葬儀については95年くらいから、ずいぶんマスコミなんかでも取り上げるようになりました。かつては葬儀とか墓の問題というのはかなり社会的にタブー視されていたのですが、85年頃からターミナルケアの問題で、死あるいは終末医療、死の看取りの問題といったことが取り上げられました。89年あたりからお墓の問題が取り上げられてまいりまして、95年あたりから葬儀の問題、寺のこと……永六輔さんが『大往生』という本を出されて、茶の間でもお葬式の話をすることができるような時代になっています。
 
 その前に『お葬式』という映画がヒットしたことを記憶されている方もいらっしゃると思います。これは伊丹十三さんが作られた映画なんですが、実はあの映画で使われてその後ヒットしたのが、布張りの棺です。それまでは木製の棺でしたが、布張り棺が映画で使われまして、それ以来、特に女性の方の人気を集め、いま、東京あたりでは女性の3分の1ぐらいの方がこれを使うようになってきています。
 葬儀は、その昔は地域共同体中心のものであったのですが、戦後の高度経済成長期あたりから社会儀礼色の強いものへと変化してきました。いま、個人的なものへ変化しようとしています。

広告
自分らしい葬儀のデザインに戻る