現代葬儀考

「一周忌」の「忌」

 

「一周忌」というのは、近親者からすると極めて中途半端である。というのは、まだ「死」「不在」に慣れるには時間が短く、生々しい。しかし、もはや遡及するには時間が経ちすぎている。
近親者の死とどこで区切りをつけるか、わかっているようでわからない。決まっているようでそうでもない。

「喪中」は約1年を言うが、それは根拠があってのことではなく、さまざまな慣習が折り合いをつけたもの。「喪に服す期間」のことなのか、「穢れが他におよばないように慎んでいるべきと定められている期間のことなのか」「悲しみが公認された期間」なのか。

「服忌令」など為政者によって定められた歴史もある。個人的なものなのか社会的なものなのか。
さまざまな説は、どれをほんとうと断じるには説得力を欠くように思う。近親者の死は極めて個人的なものなのだから、死に対する態度を社会的に律することはどうなのか。不当ではないか。

そもそも「死」の発現は多様であるから、放っておくとリスクが高いのも事実である。為政者はどこかで区切りを定めたがる。制御したがる。
また社会もどこかで慣習を作りたがる。

そもそも「喪」「忌」にしても死に対するそれぞれの態度で変わってくるものである。語源を探してもぴったりした解答は得られない。また、もし得られたとしたら、それは偏見を追認したことであるかもしれない。

それが「慎む」のか「覚える」のか、わからないが、「一周忌」「三回忌」「三十三回忌」と「忌」が付くのは「死後」について言っているから、という以外に合意できるものはないだろう。「一周忌」を「死を忌み、慎んでいる1年を終える」と理解している人はあまりいないだろうし、昔だってそういなかったはずである。

だからこれを講釈する人を信用してはならない。近親者に対する態度、関係というのはそれぞれである。最も規範化してはならないものである。
近親者からすれば死後1年、というのはさまざまな感慨をもたらす。ある人は一挙に当時の驚愕がぶり返す。記念日症候群は何も命日だけに限らない。誕生日、結婚記念日、家族旅行をした日、死者と共有した日であったり、不在を思い起こさざるを得ない日であったりする。

子どもの死は10年経過しようと、親にとっては生々しい。これは多くの場合、事実と言っていいだろう。そういう生々しい傷跡が残る場合もあるが、2年目の命日である三回忌ですら死者との関係を心に留めることをやめる場合もある。

死を具体的に考えると、「人間はかくも優しく、感情が傷つきやすいのか」と思う一方、「冷酷で、忘れっぽくて酷薄な存在」とも思ってしまう。
難しいのは同じ人間が、ある死には優しく、ある死には酷薄という二面性をもつことが珍しくないことだ。

死者を、区別なく、差別なく尊厳ある者として思うことと、過度の神話化は別物である。「死」と「忌」の結合に違和感があるように「感動」という言葉を結合させることにも違和感がある。死に対しては特に第三者が人為的に介入すべきではないだろう。

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