■「葬儀・告別式をしないで密葬」?
最近の死亡記事を見ていて「?」と思うことがある。
「葬儀・告別式をしないで密葬」という表現を目にするからだ。
密葬も葬儀の一形態ではないか。ここは「告別式をしないで密葬」とするのが正しいはずである。
現在では「告別式」は「葬儀」と同義語に使用されることが多いが、告別式の本質は社会的儀礼にある。社会性を排して、行われる密葬はそもそも告別式を伴わない。
よく「葬儀をしない」という表現がとられる。これも誤解である。
死者が出て、これに対して弔う行為もなく、火葬も含めた葬りを一切施さず、その死体を放棄したままであるなら「葬儀をしない」という表現も妥当だろう。だがこれは刑法違反になるのはもちろんのこと、仮に誰も身寄りがなく、また友人や知人もなく、葬儀を出す人が不在であった場合には、死体の存する場所の行政の長に葬儀の責任がある。現代日本においては葬儀をしない(されない)自由はない。
では「葬儀をしない」というのはどういう意味で用いられているのだろうか。
これは「告別式をしない」「密葬を営む」という意味で用いられていることが多いようだ。
戦後、特に高度経済成長期以降、葬儀はその社会的機能を肥大化させた。遺族の心情や彼岸意識・宗教感情、あるいは死や死者と向き合うという葬儀のもつさまざま機能が矮小化されて、死者を弔うという行為が「祭壇を大きくする」「会葬者をたくさん集める」というイベント性に集約されるようになった。イメージとしては「葬儀=告別式」となった。
そこから、告知して会葬者を集めて行う告別式をしないこと、近親者だけで葬儀を営む密葬にすることを「葬儀をしない」と表現されるようになった。
あまりに固定した(しかも戦後の高度経済成長期の産物でしかない)考えを葬儀に対して社会あるいは葬祭業者や寺院関係者などがもつことになった結果、こうした既定観念とは異なる葬儀を営もうとするとき、それが「葬儀をしない」になったと考えると理解できる。
中には、仏教僧侶を招くのが葬儀という固定観念から、仏教僧侶を招かない葬儀を「葬儀をしない」と誤解する向きもある。これは一般の人々にあるだけでなく、寺院関係者や葬祭業者の一部にも確実にある。
「お坊さん抜きでやりたい」
という希望に対して「そんなのは葬式ではない」と回答したという僧侶や葬祭業者の話はよく聞く。祭壇に対しても同様のことを耳にする。「祭壇がなければ葬式ではない」と言う僧侶、葬祭業者は確実にいる。祭壇が一般化したのは、全国的には昭和三五年以降、東京などの先行地域であっても昭和初期以降だというのに。
昨今の「葬儀をしない」という発言に見られる誤解は、一般の人々が葬儀に対して固定観念を強く抱いていることを示しているが、同時に専門家と言われる僧侶や葬祭業者の中にも同じような固定観念があって生まれたものである。
葬儀をしない自由はないが、葬儀の営み方は自由である。