密葬と無宗教葬

「密葬」考(4)

■なぜ個人化してきているのか?

 戦後一貫として社会化傾向を強めてきた葬儀が、バブル崩壊後、なぜ反転して個人化という内向けに流れを変えたのであろうか。

1「故人消失」への反発
 社会化を強めた結果、都市部の葬儀では、会葬者の大半を故人を知らない人が占める、ということも一般化した。会葬者の多くは、家族である息子の同僚、仕事の取引先などが中心となってしまう。会葬者の多くは本人の死を悼んで集まるのではない。この人々にとって本人の死は他人事なのである。その結果、肝心の本人の死がぼやけてしまい、何のための葬儀かが見えにくくなってしまうということが起こる。少なくとも、そうでしかないと感じる人々が増えてきたことは事実である。
 最近の葬儀に関するアンケートを見ると、「葬儀の意味は?」という問いに対して「故人を弔うため」というのがダントツのトップになる。これは現状の葬儀が故人を弔うことから離れているという人々の想いを象徴しているかのように思われる。

2脱「立派な葬儀」
 葬儀が社会化を押し進めたのは、「立派な葬儀」を追い求めた結果である。
 故人を弔うことは、その家なりに立派な葬儀を営むことである、という価値観が戦後できあがった。
 これは戦前には、一般民衆の多くは、富裕階級が立派な葬儀をするのを横目で睨み、悔しい想いをしたという恨みのようなものがあったろう。高度経済成長により一般民衆が財を手に入れた結果、自分たちも立派な葬儀ができるとなり、立派な葬儀へと流れが傾斜していった。院号居士の戒名を大金を払っても手に入れようとしたのも同じ原因である。
 立派な葬儀とは、社会的に恥ずかしくない葬儀ということであった。「人並みの葬儀」に対する希求であった。
 だが、経済基盤を揺るがすバブル崩壊は、こうした傾向に冷水を浴びせた。
 葬儀の価値は、社会的に立派であるかどうかではなく、集まる人間の感情が弔いに満ちているかにあると感じ取った。「故人を弔う想いに満ちた葬儀」こそが「いい葬儀」である、となった。それを実現するには極力第三者を排して、死者に対する想いを共有する人によって葬儀を営む必要がある、と感じる人が増えたことは確実である。

3脱「社会」
 人間は社会的な存在であるから、一人の人間が死亡して営まれる葬儀もまた社会性を帯びるのは自然である。
 告別式を行い、死を社会的に確認する作業も、後継者であることを位牌を持つことによって示し、死者亡き後の新たな社会的関係の取り結びを願うのも、一人の死が社会的意味あいをもつからにほかならなかった。
 戦前は地域社会との関係が、戦後は企業社会との関係が強く意識された。
 だが、大衆社会化が進んだことが、逆に脱社会化現象を生んできている。社会が拡がることで、個人と社会の関係が薄くなり、社会的結びつきが弱くなり、個人化傾向を強める結果を招いた。
 強いと思われた家族関係も家族の成員の地域拡散、核家族化の進行によって弱くなってきているところも多く見られるようになった。
 こうした脱社会化の傾向がまた葬儀にも反映している。葬儀の社会性を重視しなくなる傾向である。
 その人間が社会との関係が深ければ葬儀もまた社会化するというのが自然であったが、ここにきて、死は個人的なものだとする理解が強まっている。
 かつて門構えによって葬儀の規模が決まったというのは、社会的立場によって葬儀の社会性が決まったということを意味した。今、これが通用しなくなってきている。

4高齢化
 すでに「高齢化社会」ではなく、「高齢社会」に突入している。それにともない、死亡者の多くは高齢者である。
 高齢者の多くは社会の一線から退いた存在である。仲間も分散していく。高齢者の生はひじょうに狭い社会性しかもっていない。自然に考えるならば、この死を社会的に大きく取り扱うのは無理がある。家族にとっては大事な存在であるからと無理に社会性を帯びようとすれば、本人以外の子供たちの社会性によるしかない。「本人を知らない会葬者が七割」という事態は、これが無理を重ねたものであることを示している。
 高齢者世帯の増加は、高齢者の社会的孤立化を意味しており、すでに生ある段階での孤立化は葬儀ゆえの社会性の獲得を不可能なものとしてきている。
 高齢者の葬儀は自ずと会葬者の少ない葬儀の増大となる。そして無理をしての社会性の獲得に嫌悪感をもつとき、それは密葬志向となる。

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