■無宗教葬が選ばれる理由
無宗教葬の実施はまだまだ少数派であるが、これに対する理解が拡がっていることは事実である。なぜ選ばれるのか。
1.寺檀関係が弱くなった
寺檀関係とは葬式や法事における寺と檀家の関係だけではない。日常生活の文化の拠点的な性格が寺にはあり、これを檀家が支えた。これが葬祭だけの繋がりだけになり、葬祭でも儀礼だけの関係になり、日常生活上の接点だけでなく、人間関係という接点もなくなってくる。都会に流出した人々は故郷の檀那寺と切れるだけでなく、新たに都会で檀那寺をもつことが少なくなった。葬式だから僧侶を招いても、どの宗派でもかまわない。その時だけの係わり以上のものを期待しないからである。それなら不要とする人も出てくるのは自然であると言えよう。
2.葬儀の理解の変容
葬儀を「死者をあの世に送るための宗教儀礼」というよりも「死者との別れ」であるとする理解が拡がっている。
死に対して宗教性を必要とする環境ではなくなりつつある。このことが、例え宗教儀礼を伴ったにしても、宗教儀礼を形式と見なし、緊張感をもって行われない葬儀を多くする原因となっている。
葬儀式の設営であれば、本尊より遺影が大切にされるという感覚である。
本来はこれは二面性であり、いずれかという問題ではないのだが、葬儀の宗教性の比重の著しい退潮がある。
高齢化による死を偶発的危機という感覚の退潮も影響している。
3.非宗教化
読経に対して「意味不明の言葉を長々とやって」という言葉が聞かれる。遺族や会葬者は宗教儀礼に共鳴するものをもちえなくなっている。
僧侶側にも説明する努力や個別の死者への対峙を会葬者と共に行うという努力が不足している場合が多い。
せっかくの死者と対峙する時間なのに時間の無駄という反発はある。
4.葬儀の定式化への反発
これは葬儀の個性化と言われるものである。死者の生き方にふさわしい送り方があるのではないか。仏式の葬儀は定式化しており、死者の顔が見えない葬儀だという反発がある。「自分らしい葬儀」あるいは「葬儀の自己決定」を求める結果として、日常的に特定の宗教宗派に属していない以上、宗教儀礼を求めるほうが不自然との考えの台頭である。
「無宗教葬」考(4)
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