葬儀や墓の知識

葬儀式とは 藤田宏

執筆者:藤田 宏

■葬儀式とは?
 よく「葬儀に参列する」と言いますが、「葬儀」という言葉は、正確には「葬送儀礼」を略したものです。
 ですから、「葬儀」と言えば、亡くなってから、湯潅や納棺、通夜、葬儀式や告別式、出棺、火葬、法事、納骨といった一連のことを指しています。
 ふつう「葬儀に参列する」と言うときに使う「葬儀」という言葉は「葬儀式」あるいは「告別式」を指しています。
 元来は葬儀式一本だったのですが、葬儀式に参列する人が多くなり、狭い自宅には収容しきれなくなり、外で待っていただき、葬儀式の終了後(あるいは自宅内で葬儀式を行っている間に併行して)軒先などで焼香などを行うのを告別式と言うようになりました。
 このように昭和以降、都市化と共に自然発生的に生まれたのが告別式です。地方により、告別式が独立していなかったり、全体を告別式とよんだり、いくつかのヴァリエーションがあります。

■宗教儀礼としての葬儀式
 この葬儀式は仏教、キリスト教、神道などの宗教儀礼として行われるのが一般的です。最近では、少しずつですが、特定の宗教儀礼によらない葬儀式も見受けられます(これを「無宗教葬」と言いますが、特定の宗教によらないので「超宗教葬」であるとも言われます)。
 
 葬儀式の意味は、宗教儀礼ですので、それぞれの宗教や宗派によってさまざまに異なっています。
 仏教では「死者を生きているかのようにして扱い、仏の弟子にして浄土に送る」儀式ですので、僧侶になる儀礼に類似して、剃髪と言って頭に刃をあて、戒名という仏弟子としての名前を授け(授戒)ます。また、死出の旅路を迷うことなく辿れるようにと引導を渡します。このように、授戒と引導からなるのが一般的ですが、浄土真宗や日蓮宗では授戒作法は伴いません。
 キリスト教の場合には「死という厳しい現実を受け止め、死者の一切を神に委ね、遺された者への神の導きを祈る」ということに基本的意味があるといわれます。
 神道の場合には、死というのは悲しい事実ですが「神から生まれた命が、また、神の下にその霊が還り、遺された者の近くにあって見守ってくれるように祈る」ということが基本的な意味でしょう。

■「この世」から「あの世」へ
 いずれにしても、死者を、私たちが生きる「この世」から「あの世」へ受け渡す儀式です。「あの世」とは、宗教観により異なります。「還本国」つまり死ねば元の世界に戻ることであったり、「西方浄土」であったり、「天国」であったり、あるいは「土に還る」というように「自然」であったりします。
 よく「故人の冥福を祈ります」という言葉が使われます。「冥福」とは「死後の幸福」ということです。「あの世での故人の霊の幸せをお祈りします」という意味です。(これは宗教的な表現ですから、どの宗教においても使える言葉ではありませんが。)この世から去り行く故人に訣れを告げる優しい心遣いの表現です。
 私たちの立場で考えれば、死という悲しい厳粛な事実を事実として受け止め、故人のこれまでの人生、自分との関わりに想いをいたし、心からの訣れを告げる、ということであると思います。

■故人を弔うとは?
 ですから、大切なことは、故人の生き方、自分との関わりをしっかりと見据えることです。立場、立場によって異なるでしょうが、故人を自分の中で、しっかりとみつめ直し、その故人の死という事実を自分の中で受け止める覚悟が、遺され、送る者に必要だと言えます。それが故人を「弔う」ということではないでしょうか。

■悲しみを慰める
 もう一つ大切なことがあります。参列者の立場で言えば、悲しみの中にある遺族を慰めることです。
 関係のあった人の死というのは、みんな悲しいものです。身近にいた、一緒に生活を共にしたりした、家族にとっては、その一員である母や父や息子や娘の死は痛いほど苦しい事実なのです。
 自分の悲しみは悲しみとして、そして故人に対する心からの弔いの気持ち、祈りと共に、遺されて途方にくれている遺族の方への慰めを、言葉に出せなければ態度だけでも示したいものです。
 葬儀式というのは、悲しみの気持ちを中和し、克服するためにもあります。

■故人に対する想いが作る葬儀式
 葬儀式というのは、このように、宗教儀礼を執り行う僧侶、神父、牧師、神職だけによるのではなく、参列する者の故人に対する想いや悲しみの中にある人への温かい慰めの気持ちが合わさって作られるものです。
 「いいお葬式でしたね」としみじみとした感動のあるお葬式とは、故人を中心にみんなの想いが一つになり、温かい思いやりに溢れたもので、みんなが心から故人との訣れを惜しんでいるものであることは経験してよくおわかりになっていることでしょう。

■不愉快な葬儀式
 この反対に、最近は殺伐とした葬儀式にも出合うことが多くなりました。故人の子息の会社関係とか、いわゆる「義理」で参列した人が、一人の人が亡くなられた厳粛な訣れの場であることを忘れ、仕事の関係者と声高にその場と関係のない話や交流を行ってしまう。また、ただ香典だけを出せば、形だけ焼香(献花、玉串奉奠)すればいいといった、心はこの場にない形だけの参列者が多い葬儀式(告別式)です。
 
 お葬式に参列する以上は、その葬儀の場がどういうものであるかを理解する必要があります。周りの儀礼執行の宗教者、遺族、関係者はみな故人のために心を尽くしているのですから、その気持ちを大事にしてあげることが大切です。そして義理であれ、繋がりがあるから参列したのですから、それが故人の子息であるなら、その人への心からの慰めの気持ちをもちたいと思います。そうでないなら参列する資格がないのです。

■人生の決算としての葬儀式
 葬儀式(告別式)に出てわかることは、故人がどんな人であると周りの人に理解されていたかということです。これは残酷なくらいに現れます。一生懸命にがんばってきたのに周りには理解されずに終わった、とか、家族をひじょうに大切にして慕われていた、とか、虚名だけであった、とか、地味な人であったが見えないところで努力を重ねた人であった、とか、それはそれは怖いものです。 どんなに弔辞で美辞麗句をもって故人を讃えようと、愛されていなかった人に対する場合は、心がこもらず、言葉だけが一人歩きしているのがわかるものです。
 また、世の評価とは無縁の人であっても、また、立派な人による弔辞は受けなくても、惜しむ想いに溢れていることが、自然と伝わってくる場合があります。

■生命を受け継ぐ
 「死に方は生き方だ」と言われます。だれでも人である限り生命に限りがあります。何時訪れるかはわかりませんが、人生には終点があります。葬儀式とは、人の死という局面に立会い、その故人に想いをよせると共に、自らの生のありかたを静かに問い直してみるいい機会でもあります。
 限りある生命をどう生き抜き、次の世代に想いをどう伝えていったらよいのか、これは人生の大きな課題であると思います。
 故人に心からの訣れを告げながら、そこから学びとっていくこと、その人の生き方の一部なりとも受け取り、自分の中で受け継いでいくことができたなら、葬儀式を行い、あるいは葬儀式に参列する意味は大きいといえるでしょう。

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