葬儀挨拶文の作り方

葬儀委員長挨拶

──亡き人の生き方を伝える

 葬儀委員長とは、葬儀の主催者といってよいと思います。ですから、その挨拶は葬儀式(告別式)の式辞にあたると考えてよいでしょう。 一般には大型葬で見られるものです。(一部の地域では、個人葬でも、町内会長等が葬儀委員長を務めるケースがあります。)

(例1)
 
 本日、株式会社ケーエスシー会長故佐々木修氏の葬儀を執り行いますことは、痛恨のきわみです。長く山田市商工会議所でご一緒させていただいた縁で葬儀委員長を務めさせていただくこととなりましたので、一言ご挨拶を申し上げます。
 
 佐々木会長は、明治40年4月5日愛知県一宮市でお生まれになりました。大正12年、旧制中学を卒業された後、上京されまして、東京製作所に勤務され、社長賞もいただくような優秀な技術者として活躍されたとうかがっております。
 
 昭和5年には、光子夫人とご結婚、1男2女をもうけられました。ご長男の康彦君を5歳のとき事故で亡くされましたが、その心の傷をバネにしてお仕事に精進されました。二人のお嬢様はそれぞれ幸せな結婚をされ、5人のお孫さんに恵まれました。
 
 昭和16年、太平洋戦争の勃発と共に応召、南方戦線を転戦され、体重が70キロから40キロになるほどのたいへんなご苦労をなさいました。
 
 昭和21年帰国し、奥様の出身地であるこの山田で佐々木木工所を興されました。
 佐々木木工所は当時3名で始められましたが、持ち前の努力で、3年後には30名の従業員を抱える町で一番手の木工所となられました。
 その後、アイディア豊かな才能を発揮され、さまざまな事業に進出されました。昭和30年には佐々木食品、昭和35年にはインテリア佐々木、昭和45年には佐々木興産を設立されました。
 
 昭和50年には、それぞれの会社を合併、従業員350名、年商100億円の山田市を代表する総合産業としての株式会社ケーエスシーを設立されました。
 翌昭和51年には、「年寄りがあまり長く経営していると会社まで老衰するから」とおっしゃり、社長を現在の山川恵一社長に譲られ、会長に退かれました。その見事な進退の対処の仕方は大きな話題となり、賞賛を浴びました。
 
 佐々木修会長は、地元山田のためにも大きな活躍をされました。防犯会長、商工会議所会頭、体育協会会長その他を歴任されました。その深い人格故に、何回となく市議会の議員にという勧めもございましたが「私は商人であって政治家ではないから」と固辞されました。 社長を退かれた後は、ライバル会社の方の経営相談にも「私は現役でないからかまわないよ」と親身になって応ぜられるなど、町の人々の良き相談相手となっておられました。
 
 佐々木修会長、あなたは、あなた自身が種をまいて育てられた株式会社ケーエスシーだけでなく、山田市全体の財産であられました。あなたを失ったのは誠に残念です。 しかし、あなたは立派にそのご生涯を走り抜かれました。私たち市民全体の誇りです。安らかにお休みください。
 
  平成3年5月6日
  山田市商工会議所会頭
  葬儀委員長
  高橋浩二
 
 これは、事業家として成功し、市のために貢献された方に対する葬儀委員長としての挨拶です。式辞にあたるものですから、故人の生涯と功績を紹介する形をとってます。その中で、エピソードをはさみながら、自然に故人の人柄を紹介しています。「故人の遺徳を偲ぶ」といってもわざとらしい誉め言葉の羅列は印象に残りません。さりげなく、実例の中で紹介した人となりは聞く人に実感できるものとなっています。

(例2)
 
 故高木正一会長のご葬儀を株式会社高商の社葬をもって執り行うにあたり、会社を代表して一言ご挨拶を申し上げます。
 
 高木正一会長は、大正9年宮城県古川市にお生まれになりました。慶応大学法学部をご卒業後、株式会社東商に勤務されました。昭和30年、株式会社高商を設立され、以来社長として常に陣頭に立ち、会社の今日を築き上げられました。
 
 昨年7月にご病気のため社長を退任され、洋子夫人の手厚い看護の下で療養されておりましたが、平成4年2月2日午前2時3分、ご逝去されました。病名は肝臓癌でございました。享年73歳でございます。
 
 会長は、根っからの営業マンでした。といっても性格は温和で、押しつけがましいところのまったくない人柄でございました。情報を細かに整理して、相手のニーズは何かを正確につかみとられ、そのニーズにあった商品を提供することを心がけておられました。「自分の得にだけなって、お客様のお役に立てない商品なんて売るな」というのが口癖でした。
 今でも心に刻まれている言葉をご紹介させていただきます。一つは「野球でも3割ヒット打てば大打者じゃないか。失敗は恐れるな」です。断られ、がっかりして会社に戻ると決まって聞かされたものです。もう一つは「フォローをきちんとしろよ。商品を売るだけでなく、使われるところまで見とどけなさい。お客様にとって価値あるのは使ってからだよ」です。
 いちいち紹介はできませんが、私たちにとって会長は、営業マンとはどうあるべきか、ということを一から十まで教えてくれた先生でした。おかげさまで、お客様の信頼を得られる社員となり、会社となれたと感謝しております。
 
 ご参列の皆様、本日はご多用にもかかわらずご会葬いただきありがとうございました。会長は私どもにとってかけがえのない存在であっただけに、社員一同大きな衝撃の中にあります。だが、私どもはこれを乗り越えて、会長の精神を体に刻み込み、一層信頼される商品のご提供に努めていく所存です。これが会長に報いる唯一のことであると思います。
 
 皆様のご指導、ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。
 
  平成4年2月25日
  株式会社高商代表取締役
  葬儀委員長  相沢啓介
 
 社葬としての代表的な挨拶例です。故人の生涯を紹介し、故人の仕事における人柄を会社精神として紹介。最後にこれを継承していく決意を述べるというスタイルになっています。立派だった、偉かったと言葉を尽くすよりも、故人の説得力のあるモットーを紹介することが効果を発揮しています。代わりにエピソードを入れるのもよいでしょう。
 
 地域によっては、小さな葬儀でも葬儀委員長が立てられることがあります。この項の最後にその例を紹介しておきましょう。
 
(例3)
 
 この商店街で、いつもそのさわやかな笑顔と親切さで皆に愛された、故山田タキさんのご葬儀にあたり、葬儀委員長として一言ご挨拶申し上げます。
 
 山田タキさんは明治44年生まれですから、享年81歳です。一昨年、ご主人の和夫さんが先立たれましたので、ご家族は息子さんの和一さんご夫婦とお孫さん二人です。嫁姑の争いもない、みんなが羨む仲の良いご家族でした。
 また、皆さんが働き者です。タキさんも今年2月に入院するまで最後まで店番をするなど働いておられました。皆さんご存知のように、タキさんは世話好きでした。タキさんのお世話で、この町内でも8組の夫婦が誕生しました。その子供を含めると全部で30人になります。タキさんの家の正月はですからいつも大入り満員の状態でした。タキさんがチャンチャンコに身を包み、真ん中でにこにこしていた様子が思い起こされます。
 
 和一さん、おばあちゃんが亡くなり、お淋しいことでしょう。でも、おばあちゃんはきっといつでもご家族を守ってくれるでしょう。
 タキさん、ご主人の和夫さんと一緒に、和一さん一家とこの町の皆を見守ってください。
 
  平成4年3月2日
  田村町商店会会長
  葬儀委員長
  及川栄助
 
 親しい間柄のときは、格式ばるよりも、自然に親しみがにじみ出るほうが聞いている人の心を打ちます。この方は一言一言をゆっくり区切るように述べておられ、町の人もほんとうにそうだと頷きながら聞いていたのが印象的でした。

 葬儀委員長挨拶というのは、関係によって変わってきます。3つの例だけでしたが、そのことがおわかりいただけたと思います。

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