現代葬儀考

「墓」を考える

 

■「墓」が揺れている

 バブル期まで「墓が足りない」と言われ、ちょっと安く、居住地に近い墓は売り出しと共に行列を作り、抽選していた様子が、今ではすっかり様変わりしている。今、墓は売れない。
 バブルが崩壊し、消費低迷の状況にあって二百~三百万円する墓が売れないのはあたりまえという認識はまちがってはいないだろう。だが、同じような価格帯にある自動車には今年(平成九年)三月までに消費税五%値上げの駆け込み需要があったが、墓にそうしたことが顕著だったという話はあまり聞かない。経済状況だけを理由にしての買い控えだけとは思われない。
 確かに土葬の時代とは異なり、火葬率九八・六%(一九九五年)の火葬全盛時代にあって、墓はどうしても今すぐ必要なものではない。遺骨にして壺に収納すれば自宅でも保管できるし、一時的に預かってくれる納骨施設もある。こうした景気の先行きが不透明な時代に生活用品ではないので慌てて墓の購入を図る必要はない。

 現在主流の「○○家の墓」(いわゆるイエ墓)が明治末期以降の火葬の進展と家観念の強調の中で生まれてきたものであると言われる。戦後、都市化と核家族化によって「ミニ・イエ」が多量に誕生し、これが昭和四十年代以降の民営霊園の誕生と墓購入ブームを作りだしてきた。だが、核家族というミニ・イエと戦前のイエとは性格を異にする。単に規模を小さくしたものではない。都市部のミニ・イエはかぎりなく流民化する傾向にある。ミニ・イエを維持するために賭けたサラリーマンとその家族の熱意が高度経済成長のエネルギーの一つとなったが、家族統合のシンボルもなく、分散と解体の憂き目に合っている。若年層だけでない単独世帯の増加、そして戦後の核家族を支えてきた高齢者の再びの単独世帯化が進行している。
 よく江戸時代に寺檀制度が確立し、庶民の墓が生まれたと言われるが、最近の発掘調査の結果、江戸という都市には檀家ともなり得ない、つまり家族を保持しない流民が多数存在し、彼らの死後は投げ込みのように扱われたことも判明している。(西木浩一「墓」、『方法 教養の日本史』所収)

 どうも墓というのは、人間を支える何らかの生活共同体の存在を抜きにしてはあり得ないようだ。
 それが小さな核家族であれ、大家族のイエであれ、である。村落共同体で一つの墓をもったケースも存在するがそれは一つの生活共同体と見なすことによってあり得る形態である。
 今、女の碑の会にせよ、もやいの会であれ、血縁や地縁から離脱した形の中では、それに代わるコミュニティあるいはネットワークが墓の基盤になっているのは、血縁等の縦社会の関係が崩れ、それに代わる横社会の関係が現れてきたことの証左であろう。
 おそらく墓を支えるものの基盤が流動化し、多様化してきていることが、今の墓の揺れを引き起こしているものと思われる。

■永代供養墓

 今の墓の権利が基本的に「所有権」ではなく「使用権」であるとの認識はこの間で相当進んだ。つまり継承者があって墓は存続するのである。つまり墓を支える母体が必要だということである。これは現在、使用権契約という形をとっているが、こういう権利関係が明らかでない時代にあっても、支える母体を失えば、墓は消滅せしめられてもしかたのないものであった。

 こんな話を聞いたことがある。「永代」と言っても、住職が在任しているかぎりの話で、住職が交代すると縁という支える母体を失った墓は整理されたことがあるという。
 「永代」とは広辞苑では「永世。とこしえ」とある。しかし、墓の使用権は、「支える母体があるかぎり期限なく使用できる権利」と読む。
 近年になって現れている「永代供養墓」とは、墓を支える母体が従来の家族ではなく、ある種の会であったり、寺院や墓園そのものとなることを宣言し、権利関係を明確にしたものと言うことができる。人間関係が多様化し、核家族は永続性の根拠がない、となると墓を支える母体を家族と特定すること自体が困難なことになる。永代供養墓の出現は、従来は少数派として無視して切り捨ててきた死後に支える母体がない、あるいは不確実な個人に墓として市民権を与える動きであるし、こうした存在が今や少数派とは言い切れない大きな存在となったという社会の変化を示している。

■合祀墓

  永代供養墓の多くが「合祀墓」という形態をとる。合祀墓とは一基の墳墓に複数の、単一家族以外の人の遺骨を収める形態の墓である。
 「単一家族以外の」というのがミソである。この言葉を除外すれば、個人墓以外はいわゆる家族墓も含めて「合祀墓」になってしまうからである。
 墓埋法によれば、いわゆる「墓」には2通りある。「墳墓」は「死体を埋葬し、又は焼骨を埋蔵する施設」であり、「納骨堂」は「他人の委託をうけて焼骨を収蔵するため」の施設のことである。

 実はこの墳墓(通称「墓」)と納骨堂の区別は必ずしも明確ではない。
 墳墓の規定の「死体を埋葬する」いわゆる土葬は現在では一般的でないので除外すると「焼骨を埋蔵」する施設ということになる。「埋蔵」とあるのだから地下に収めることを言うのだろう。だが、九州によく見られる背の高い墓は地上の部分にカロートがあり、横から遺骨を収める形式になっているので「埋蔵」にはあたらない。納骨堂の規定の後段の「焼骨を収蔵」する施設のほうが似合っている。事実、その地では「納骨堂」と呼んでいた。カロートができてそれに遺骨を収める形態は場所が地表か地下かに関係なく「収蔵」のイメージである。そうなると納骨堂の規定にある「他人の委託を受けて」が重要になりそうだ。墳墓の規定にはこれに対応する表現がない。そうすると墳墓に収める遺骨は他人のものではないことになる。墳墓の使用者の身内の遺骨ということになる。

 では、合祀墓は墳墓か納骨堂かとなると、どうも納骨堂に近いような感じがする。収められる遺骨が特定の家族のものという限定がないからである。
 永代供養墓が合祀墓の形態をとることが多いのは管理の容易さにある。個々が墓石をもてば、それには所有権がつき、改葬の問題なども将来生じかねないからである。

■合祀墓、合葬墓、集合墓

 「合祀墓」と言ってきたが、これを「合葬墓」あるいは「集合墓」と表現することもある。「合祀」は「祀る」という表現から宗教色があるからというのが主な理由である。
 行政は「合葬墓」を好む。だがこれも問題がありそうだ。「葬」という語は「葬る」を表すからだ。昔、戦場での死者を穴を掘って複数まとめて埋めたのであれば「合葬」であろう。「葬り」とは物理的には死体処理である。土葬、風葬、火葬、水葬、鳥葬がそれである。今日のは火葬後の遺骨の処置であるから二次葬にあたる。そうなれば「集合墓」「合同墓」「共同墓」のほうがより適切に思われる。

 今まで意識しないで「合祀墓」が一般的だったのはなぜだろうか。今回、沖縄に行き、戦跡巡りをして気がついた。激戦地の跡には多数の慰霊塔が建てられていた。死者を記念するだけのものもあり、実際に遺骨を集めて収めたのもある。まさにこれは「合祀墓」であった。死者に対する遺された者の想いを表現するものであったからだ。「祀る」が神道と特に結びつける必要はないだろうが、「合祀墓」には死者に対する宗教感情が不可欠のものであることは事実であろう。
 こうした戦没者に対する合祀塔、慰霊塔のイメージが強力にあったために合わせて遺骨を収める墓を表現するものとして「合祀墓」が自然となったのではないだろうか。
 戦跡の合祀塔のいくつかには死者の名前がプレートで刻まれていた。合葬墓・もやいの碑にも名前が刻まれている。死者一人一人を記念するためである。沖縄の平和公園内に新たに作られた「平和の礎」には戦争に関係して死んだ沖縄住民、日本兵士、米軍兵士の名前が刻まれている。ここには遺骨はないが関係者が家族の名前の刻印を訪ね、参っていた。

■共同墓

 沖縄の南部を歩いたが丘陵地の斜面のあちこちに亀甲墓(かめこうばか、カーミナクーバカ)が見られた。近年は家族墓も現れたが、門中墓という一族の墓であることが多い。かつてはいったん死体を収めて風葬にし、二~三年したところで洗骨し、壺に入れ直して収めていた。二次葬である。墓の上部に見られる小屋は洗骨用のものという。

 亀甲墓ではないが、糸満市には大きな家型の幸地腹門中墓がある。ここには数千人という門中の遺骨が収められている。
 こうなるとイエ墓というよりは同じ家系を根拠とした共同墓である。一族である門中の結びつきの強さもあるだろうが、一つの知恵ではあるだろう。また名嘉真宜勝氏(読谷村立歴史民俗資料館)によれば模合墓(むえーばか、寄合墓ともいう)というのもあったという。「組仲間や知人、友人など気の合った者どうしが経費を出し合って造った墓」であるという。現代の共同墓につながる先駆と言えよう。

■詣墓

 関西を中心に埋墓と詣墓という両墓制が存在したことは知られている。埋墓は死体埋葬地であってステバカとも言われる。死者を慰霊するのは詣墓のほうである。
 現代の焼骨を収める墓は、火葬という死体処理を終えた焼骨を収めるものであるから詣墓のようなものである。遺骨を死者を象徴するものととらえるが、関西の拾骨が白骨というほんの一部の骨を収めることからもわかるように象徴行為なのだろう。本山に白骨を収めれば各自は墓をもたないところもある。死者を記念するものが思い出の品ということもあるだろう。遺骨に対して想いを集中する度合いが強いだけである。

■住処か記念の場か

 墓を死者(の霊)の住処とする考えと死者を記念する場とする二つの考えがあり、併存している。
 これは死者側から見るか遺された側から見るかの観方の違いでもあるのだが、今では焼骨を収める墓となって記念する場とする考え方が優勢になっているように思える。
 詣墓はまさにそうであるし、戦後の団地風の狭い林立する墓地を見れば、安息の地とは想像しにくい。

 散骨に対する理解が進んでいるが、海や山に眠ると考えるほうが狭い墓よりもロマンがあるとする考え方の台頭の面もあるだろう。環境保護や家墓への反発などもあるだろうが、住処論の形を変えた台頭とも言える。これは近年著しい一人称の死(自分の死)への関心の増大と合致している。「死後の自己決定権」という言葉がまさに象徴している。
 住処であるとするなら沖縄の亀甲墓はまさに住処である。広々としていて庭もある。ここで死者と交歓するというが、こうした感覚は他では見られにくいのは単に文化の違いなのだろうか。

■墓参

 墓は揺れるが墓参行為は盛んである。散骨に反発する理由の一つに「墓参ができない」というものがある。だが、散骨した場所を記念して訪問するというのも墓参である。海に撒けば循環しているのだからどこの海でも墓参できると言う人もいる。散骨でも墓参行為がないわけではない。
 墓(散骨も含め)を考えるとき、この墓参行為との関係も見る必要があるだろう。墓参の本質は遺された者の死者との関係づけ行為だと思う。機能的には仏壇とよく似ている面がある。

 都の大規模納骨堂であるみたま堂が不評な理由の一つは無名性である。墓参する者は具体的な死者をイメージしている。それなのに死者の名前が参拝場所に刻印されていないなど死者が墓参する者にとって見えないので、墓参行為が曖昧にされてしまう感があるからである。
 時間その他によって死者との間の感情は変化する。だが、そうした推移の中にあって死者との関係づけは依然として遺された者にとって重要である。散骨を含め墓の形態の多様化はあっても死者と生者の魂の交歓は失われることはないだろうし、これが墓を支える精神的な支柱であろう。
 死者は遺された者の心の中で意識する以上に重要な位置を占めている。その意味では生者と死者は共存していると言っていいのではないか。
 外在的な墓を「見える墓」とするならば、その形態は確実に変化する。だが心の中の「見えない墓」は確実にある。このことを無視しての議論もまた「墓」を論ずるものとしては無効なのではないか。

現代葬儀考 42号 碑文谷創

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