葬祭業とは何か?

2 葬祭業の定義と歴史

■広辞苑に見る「葬祭業」の定義
 一口に「葬祭業」と言っても「葬儀に係る業」とするとギフト業者、生花業者、仏壇業者…と入るので広くなる。もっとも、各地では「葬祭業」と「葬祭関連業」の差はさほど明確ではなく、生花業者が葬儀施行を行う、葬祭業者が墓地開発に手を染める等、お互いが市場を侵食し合っている。
ここでは一応「葬祭業」を「葬儀施行に携わる業」と規定しておく。ちなみに先に挙げたように、統計上の事業名は「葬儀業」となっている。

「葬祭業」の定義はない―と断言するわけではないが、辞書的に確立されたものはない。
 インターネット上の百科事典であるウィキペディアには「葬祭業(そうさいぎょう)は、葬儀や祭事の執行を請け負う事業である。葬儀のみを行う場合は葬儀業ともいう」と書かれているが、現実に「葬祭業」と「葬儀業」に差があるわけではない。
 広辞苑には「葬祭」は「葬式と祭祀」という説明にもならない説明があるだけであり、「葬祭業」には触れていない。

「葬儀」は「死者を葬る儀式。葬礼。葬式」とあり、「葬儀屋」の項で「葬儀に関する器物を貸しまたは売り、または葬儀一切を引き受ける職業(の人)。葬儀社」とある。
 深読みすると、広辞苑では、「葬儀屋」が一般的で、時間的には「葬儀に関する器物を貸しまたは売る」いわば「葬具提供業」が先行してあり、それが発展して「葬儀一切を引き受ける職業」となり「葬儀社」と言われるようになった。しかし、「葬具提供業」と「葬儀請負業」は並行して存在する、と規定されているかのようである。
 事実、全国を見渡せば「葬祭業」の実態は多様であり、「葬儀請負業」が多いものの、多様な段階の形態の葬祭業が併存している。

■「葬儀屋」の世界
「葬儀社」という言葉も相当市民権を得てきているものの、「葬儀屋」という言葉が社会ではまだ一般的である。また葬祭業の人が自らの仕事を謙遜に「葬儀屋」と称するときにも用いられる。
 だが「葬儀屋」には「葬具提供業」で近代的経営ではなく、また中小零細な企業体というイメージが強く残っている。

 もう一つ「葬儀屋」という言葉のもつ語感には、社会の上からの目線であり、差別感情が見られる。たとえば「所詮、葬儀屋だから」という言い方においてである。
「葬儀屋」には、遅れた産業、まだ近代化がされずサービス業として確立していない業、古臭い因習が幅をきかしている業、といったマイナスイメージがもたれている。裏では「死体処理業」、「死体を商品にして儲けている」「遺族が平静な情況でないことにつけこんで高い金額をふっかけている」といった「偏見イメージ」「悪徳イメージ」が依然としてまかりとおっているのが実情である。
 08年に納棺師の世界を描いた映画「おくりびと」が上映され、その仕事の重要性が広く認識されるようになったとはいえ、偏見そのものがなくなったわけではない。
 それでも60、70年代と比べると、特に2000年以降、社会的偏見は格段と少なくなっている。

■葬祭業の歴史

「葬祭業」は明治以降の職業である。江戸時代にそうした仕事があったことは確かであるが、現在の葬祭業に続いているのはわずか数社程度と少ない。
死者の埋葬や火葬に従事した人や職業の存在は、かなり古くにさかのぼることが可能であるが、現在の「葬祭業」に直接繋がってはいない、と見るべきだろう。現代人にネアンデルタール人が直接つながっているわけではないように。しかし繋がっているものもある。それは死者に係る者を「穢れている」と見て忌避する感覚である。

 あえて言うならば「商業」としての「葬祭業」への参入が盛んになったのは明治中期以降のことである。葬儀が昼間に執り行われるようになり、葬列が派手やかに見せるものとなった時期である。
 葬列を盛んにするための人夫の手配に、葬列を彩る葬具の開発・提供のために葬祭業が多数発生した。但し、これは都市部においてである。

 葬祭業の始まりは一様ではない。葬儀で使う造花の提供から始まり「ハナヤ」と言われ参入した者、棺やそれを運ぶ輿を提供したことから「龕屋(ガンヤ)」「棺屋(カンヤ)」と言われ参入した者、葬式で用いる食材等の手配から進んだ「八百屋(ヤオヤ)」、大工仕事の延長で棺作りに参入した者、とさまざまであった。
 葬具、造花を製造し、これを販売したり貸し付けたりすることから参入した人たちが多かった。

 葬儀が地域共同体によって運営されるものであったことにより、それぞれの地域で葬祭業に係る業も多彩で、一つの言葉に収斂させることは極めて困難である。
 言うならば地域の葬儀運営を補助する仕事として、さまざまな係りをなしたのが葬祭業であった。
 造花で代表的なのは花輪(後に尊敬を込めて「花環」と書かれたが)であったが、これは70年代までは葬祭業者の製造による売り切りで、それが次第にレンタル商品へと移行したものであった。中部から関西では花輪の代わりに仏花とされた樒が用いられた。

■「祭壇」が変えた葬祭業
 都市では昭和の初期から葬列に代わり告別式が盛んとなった。告別式の装飾壇として「祭壇」が登場した(宮型霊柩車、輿型祭壇はいずれも葬列の中心であった輿がデザインの原型になっている)。
提供する葬具の中心が棺から祭壇へと変わったのである。以降、仕事の中心は、祭壇を中心とした式場の設営へと変化していく。

 地方がこの都市の変化を追うようになったのは戦後の50年代以降のことである。日本経済の回復、高度経済成長に合わせて、「葬儀=祭壇」というイメージが強くなり、「葬具料金」は「祭壇料金」という形に全国的に一本化していった。
 昔から葬儀では祭壇らしきものは使われていた。江戸時代の絵を見れば、枕飾りの台程度のものはあった。しかし、いま我々が口にする「祭壇」とはずいぶん異なるものであった。せいぜいが棺周りを装飾するものであった。

 葬式が、移動する「葬列」から静の「告別式」に変化することにより据え置き型の装飾壇「祭壇」が好まれるようになる。
 戦前の都市部における祭壇は、輿こそ仏壇や宮大工による細かな装飾が施されたが、段々は組み立て式の三段飾り程度までであった。これが戦後は4段、5段となり、装飾要素が大きくなった。

 よく日米の葬儀の差を、中心とするのが米国は柩であるから遺体、日本は装飾物の祭壇と見るというのがあるが、日本でも祭壇の輿は柩を運ぶ道具が象徴化しているので、日本でも元来は遺体が中心であった。但し、「祭壇」となることで遺体と物理手に分離したことが、葬儀が特に戦後の高度経済成長期以降、社会儀礼化して変質したことを現している。あるいは祭壇化が葬儀の変質を招いたのである。その時期、葬祭業者が宮型霊柩車を保持すること、目立つ、立派な輿型祭壇を保有することが葬祭業者のアドバンテージ(優位性、強み)になったのである。あたかも現在で斎場(葬儀会館)保持がアドバンテージになっているように(もっとも現在は「勝つ」ためではなく「負けない」ために保持するのであるが、かつても事情は同じであった)。宮型霊柩車競争、祭壇競争が過激になり、突飛で派手なデザインのものまで現れた。

 葬祭業は地域によっては「壇屋(ダンヤ)」と呼ばれるところもあった。「祭壇屋」が略されて「壇屋」となったのだろう。
 かつて葬祭業で働く(求められた)人の中心は、葬具や造花を作ることのできる人で、祭壇等を組み立て、式場を幕等で装飾し、設営することがメインの仕事とされた。
 そこに集まる人々は、まず大工作業がうまい人、職人であることが求められた。
 まさに演劇において大道具、小道具が裏方の職人であるが、まさに葬祭業に従事する者は大道具、小道具の職人としての才能が求められた。

 かつて葬具作りは地域の男性の役割であったが、これが葬祭業に引き渡され、葬祭業は「葬具提供業」になり、次に祭壇設営から式場全般の設営を行うようになり「式場設営業」へと移行した。この大きな動きは全国的に見れば60年代から80年代の20~30年の間に起こったのである。

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