■所管は厚生省だった
葬祭業の行政での管轄は、現在では経済産業省であるが、かつては厚生省(当時)であった。
でも明治以来かと言えばそうではないようだ。墓地、埋葬等の規則に関係する限りは厚生省の管轄であったろうが、戦前は葬祭業の位置付けが明確ではなく、地域共同体の仕事の一部の肩代わり、仕入先のようなものであった。
「葬祭業」という独立した事業は都市部から始まり、地域の山間部では90年代になってようやく事業者に頼むようになったというところもある。
戦時中あるいはその以前は、葬祭業は「葬具販売業」であったから「商業」に分類されていたが、戦後は法律的な接点をもったのが、墓地、埋葬等に関する法律であったので葬祭業は厚生省と接点をもった。理由は死体を取り扱うからであった。
葬儀であるから遺体が中心にある。しかし、かつて遺体を洗浄する湯灌は地域社会によって行われた。遺体は必ずしも葬祭業者の扱うものではなかった。
いつからということは明確に言えないが、また、地域によっても大きく異なるが、おそらく事故遺体、災害遺体、犯罪遺体、腐敗遺体等は早くから葬祭業者の手に委ねられたのではないだろうか。
昭和初期以降、都市部では順次遺体処置への葬祭業者の介入があったものと見られる。戦後の50年代には都市部では葬祭業者の係りが認定されるし、全国的に見ても70年代以降には明らかに遺体処置への介入が認められる。
遺体の15%程度には腐敗、損傷が現在でも見られることから、かなり早い時期から、建前は地域が係ることになっていたとはいえ、葬祭業者の遺体処置への係りがあったと思われる。
57年にすでに「死体取扱師から式典指導者へ」という業界の願望が見てとれる。ということは、それよりずっと以前から葬祭業者により遺体の取り扱いが行われていたということを示している。事実、災害遺体、事故遺体等への係りは戦後早い時期から各地で認められている。
したがって葬祭業者が戦後早い時期に行政の主管を厚生省と見なしていたのは不思議ではない。70年までは専門事業者の全国組織である全葬連の役員に「厚生大臣表彰」が行われている(現在は「経済産業大臣表彰」へ変わっている)。
葬祭業が厚生省主管から経済産業省主管へと移行したのには3つの理由が考えられる。
①米国フューナラルディレクター制度の影響
②「葬祭サービス業」論の台頭
③冠婚葬祭互助会の台頭と拡大
以下、それぞれを見ていこう。
■米国の葬祭業の影響
①の「米国フューナラルディレクター制度の影響」は、戦後間もなくして始まった米国の葬祭業者と日本の葬祭業者との交流が大きく影響している。この交流は日本の葬祭業に大きな刺激を与えた。
米国においては、葬祭業は「フューネラルディレクター」として資格制度化され、社会的位置づけが比較的高いのに対し、日本社会では低い(実情は米国においても弁護士や医師に比肩するほどは社会的地位が高いわけではないが、当時は日本の葬祭業者は羨望をもって米国の葬祭業者を見ていた)。つまり日本の葬祭業者に対しては社会的偏見があり、また、各事業者も「カ(ガ)ンヤ」「ハナヤ」的な、家業的経営が多く、近代経営から立ち遅れている、という認識であった。
戦後、早い時期から全葬連が「葬祭業の社会的地位の向上」をスローガンに掲げ、96年に葬祭ディレクター技能審査の発足に際しても、第一の目的に掲げられたのは「葬祭従事者の社会的地位の向上」であった。これが葬祭業界の悲願であったということは、葬祭業界は長く社会的地位が低く見られていたということを立証している。
「死体取扱師ではなく、式典指揮者(注・当時フューネラルディレクターがこう訳され、理解されていた)へ」という願望は、北米では「フューネラルディレクター」のほとんどは「エンバーマー」を兼ねている、つまり「葬儀の専門家」は「遺体の専門家」でもあるという事実に対し、半分目を閉じることとなった。
日本では米国においては「遺体の専門家」でもあるという部分は熱心には注目されなかった。その理由としては、日本では米国とは大きく異なり、遺体は「土葬ではなく火葬」されるのが一般的であり、すぐ火葬される遺体に保存処置は日本では不要という見解であった。また、エンバーミングは遺体の一部を切開するので刑法「死体遺棄罪」に抵触するのではないか、という危惧があったからである(現在では大阪高裁の「エンバーミングは日本遺体衛生保全協会(IFSA)の自主基準に従って行われる限り違法性はない」との判決に対する疑義が最高裁で棄却され確定しているので、条件付きで違法性がないとされている)。
■「葬祭サービス論」の台頭
②「『葬祭サービス業』論の台頭」であるが、これが唱えられた理由は、葬祭業を「サービス業」と位置づけることにより、通産省(当時)の主管となり、また「死体取扱師」のように見られる偏見から脱皮できるのではないかと考えられたからである。この論の背後に、北米では「葬儀」を表す「フューネラルサービス」を「葬祭サービス」と誤訳したことも拍車をかけたと思われる。
このことから葬祭業は「葬具(提供)業」というハード、つまり物品製造・販売業からソフト、つまりサービス業へ転換しなければならないという「葬祭サービス業」への転換が強く叫ばれることとなった。
その「ソフト化」とは、「海外の技術も参考として造形(おそらくエンバーミングの修復技術を想定したものであろう)、美術、写真、演出、話法」であり、「当日施行で業務を終わりとするのではなく、その後の返礼品、法事、仏壇、墓、遺産相続等のアフターサービスの再開発による業務の拡張」であった。
現在では「葬祭業」においてほとんど常識化されている映像、音響、ギフト、アフターサービスは70年代以降に唱えられたものである。
通夜前に祭壇設営は行っていたが、通夜での葬祭従事者の立ち会いは80年代までは必ずしも一般化していたわけではなかった。これらは「葬祭サービス」論が開拓したサービス分野であった。
■互助会の誕生と拡大
③「冠婚葬祭互助会の台頭と拡大」は、厚生省管轄から通産省管轄へ大きく影響した。
いまではシェアの47%と葬儀の半分近くを占める冠婚葬祭互助会は、戦後始まった。
戦後間もない48年、横須賀の西村葬儀社が当時の混乱した社会を背景に横須賀市冠婚葬祭互助会として発足したのがその最初である。最初の互助会は葬儀社が始めたのである。これは月掛15円で満期10年1800円というものであった。冠婚葬祭の費用を準備するシステムとして始まった。これが大きく発展するのは53年に名古屋市冠婚葬祭互助会(当時)が発足し、日経新聞に大きく紹介されたことによる。
このことがきっかけとなり互助会システムは当時流行した新生活運動を背景に飛躍的に全国各地に誕生し、勢力を増やした。互助会を行ったのは西村葬儀社のように元は葬祭専門事業者であったものもあったが、その多くは異業種であった。元来の葬祭専門事業者にとっては「アウトサイダー」であった。
互助会自体は結婚式や葬式の費用を準備するシステムであったが、次第に自前で結婚式や葬式を提供するようになった。つまり結婚式場業や葬祭業に進出したのである。
葬祭業が明確にビジネス(営利事業)と認識されたのは互助会が最初ではないだろうか。昭和初期に大阪・公益社が株式会社として葬祭業を始めたのが最初であるが、一種のムーブメントとして展開したのは互助会が最初であろう。元々の葬儀社が営利事業でなかったのではなく、葬祭業を、消費者に葬祭用品・サービスを提供する事業と捉え、そこで収益をあげるために商品、サービス、対価を企画・計算したという点で画期的であった。
こうしたビジネス化は戦後文化の中で旧来の儀礼の簡略化を図る風潮とも合致して人気となった。
だが、「葬具屋」「葬儀屋」と言われた葬祭業者は、その事業展開に地元の地域共同体、あるいは近世以来、民衆の生活文化と深く結びつき「葬祭仏教」とも言うべき文化を築き上げてきた仏教寺院と深く結びついており、その慣習や伝統文化とない交ぜになっていた。そのため事業という観点では自立していなかった。その古さが互助会の進出を許した。
しかし他方で営利追求が過ぎて互助会は消費者問題を引き起こし、社会的規制対象ともなった。その結果が割賦販売法の適用であった。
著しい拡大を見せた冠婚葬祭互助会は、73年には通産省の下で許認可事業となった。この意味は、一つは規制であり、もう一つは公認であった。マイナスだけではなくプラスも互助会は手に入れたのである。
これを受け、専門事業者団体である全葬連も74年以降、通産省を主管とすることに決した。
■葬祭事業
74年以降、専門事業者も互助会事業者も通産省(当時、現在、経済産業省)を主管とすることを決した。
これは互助会の葬祭業への進出、拡大だけではなく、葬祭業を囲む機運のようなものも大きく影響しているように思われる。
60年代から全国に祭壇が普及し、国内経済の上昇に伴い、「儀式産業」として葬祭業者が自覚したことが大きく影響した。事実、葬祭業に進出したのは互助会だけではなかった。さまざまな事業者がこの時期に葬祭業に進出した。おそらく現在葬祭事業を行っている事業者の約7割が60年代以降に葬祭業に携わっていると思われる。互助会も農協も生協も専門事業者も含めてである。
日本社会は、戦中、戦争直後の疲弊から立ち直り、世の中が「世間並み」「人並み」の葬儀を志向することにより、葬祭業の事業規模は拡大した。同時にこの時期以降、葬祭業界は「消費者問題」を抱えることになった。また、葬儀のヘゲモニー(主導権)を巡って仏教寺院との軋轢も増すことになる。