火葬場の玄関に車の列が横づけされた。柩が運び出され、荼毘を見守る人々が降り立つ。黒づくめの中に白いワイシャツの中学生らしき子供の姿があった。母親に促され、列の中に入り、建物の中に入っていった。
火葬炉前のホールには緊張感が漂っていた。腫れぼったい眼を上に向けている者、涙を拭っている者、こわごわと炉を覗きこむ者、肩を寄せ合う者、控えめに静かに佇む者、遅れている者がいないか確認する者、さまざまに佇んでいる。
僧侶の低く響く読経の声が死者をあの世に呼び込むかのようだ。すすり泣く声がそれに唱和する。喉を掻きむしるような唸り声も響く。
火葬炉が閉められ、中からゴーっという音が響く。眼を思わず閉じる。その瞬間、「控室でお待ちください」という係員の毅然とした声がかかり、人々は控室に足を向ける。立ち去り難い想いを断ち切るように。
控室に入ると、年配の者が、皆の重い気持ちを振り切るように「食事にしようよ」と声をかける。その声をきっかけに皆は席につき、「天気がよくてよかったわね」とか天候の話、久しぶりに会ったことで近況の交換、人の紹介とか、しばし死者の話から意図的に遠ざかる。
「○○ちゃん、大きくなったわね」中年の女性が驚きの声をあげ、子供はそれにはにかんでいた。子供の成長を賛嘆する話題は、なぜかこの風景に似合っている。皆、安心することができるからだ。
今の時間、死者の肉体が焼かれていると思うと、死者のことを話題にするのは憚られる。死の脆さに対抗するには若々しい肉体こそがふさわしいように思うのだ。
声は賑やかなのだが、皆の食は進まない。子供たちに余った料理をすすめても、子供たちもまた、この状況を受けとめかねているのか、いつものようには食が進まないようで断っている。死の重さが皆の胃を圧迫しているかのようだ。出されたビールもあまりあかない。男たちも関係ない話題で盛り上がっている。ときおりグラスに手を伸ばし、口を潤しているにすぎない。笑い声は大きいのだが、目が笑っていない。
「○○さんは考えてみれば幸せだったと思うよ」
重苦しさに耐えられないように、誰かが死者に話を向ける。女たちが互いに目をのぞきこむようにしてうなづきあう。やっと本題に入れたという安堵感が漂う。しばし死者の思い出話が続く。いい思い出を捜して口にし、悪い思い出はできるだけ避けている。
「そろそろ呼びにくる時間ではないかな」と火葬の終了を気にする声も聞かれる。若い者を見に走らせる。
拾骨室に遺骨は運び出された。皆、しばし呆然としている。変わりはて、焼かれて骨になってしまった死者の姿を見て、死者がほんとうの死者になってしまったことを実感している。
「骨がしっかりしている」と死者を見送った経験の多い男が言うと、皆は全身を舐めるように見渡す。着色している部分があると、その詮索をする者もいる。隅にいて目を覆っているのは配偶者。涙はもう乾いているが、肩を落とし、淋しさが全身を覆っている。
配偶者は促され、最初に箸をもたされ、一つ骨を拾うと、後は隠れるように後ろに下がった。皆が黙々と、対になって骨を拾いあげ、骨壺に落としていく。
一通り終わると、「よろしいでしょうか」と係員が声をかけ、最後、手際よく処理していく。骨壺が箱に入れられ、風呂敷に包まれると、終わった、という安堵感が覆う。
帰りのマイクロバスの中は静かな空気が漂っていた。火葬場に向かうときのあの落ち着きのない、そしてちょっと重苦しい空気とは大きく異なっている。疲労感が胸の中で広がる。
3日前、配偶者は、急変したと深夜に病院に呼び出された。覚悟をしていたせいか静かな気持ちだった。だが、医師が死を宣告した瞬間、手を握ったまま、ベッドの下に崩れ落ちていた。看護婦が遺体を清めてくれ、促され髯剃りをした。髯が少し伸びていた。明け方に遺体を自宅に移し、安置した。穏やかな顔をしていた。朝、葬儀社をよんで葬儀の相談をし、あちこちの関係者に電話で連絡をし、その夜は近親者だけで静かに遺体を見守った。目の前にいるのだが、遺体に対し、なぜか実感が湧かない。昨日は通夜を営み、その晩も線香の火を途絶えさせないよう夜中交代で見守った。若い頃の思い出が走馬灯のように行き交い、甘美な気分すらした。この日は家族揃って朝食をとり、葬儀式を営み、多くの人の弔問に応え、最後の死者との別れをした後、見送られ出棺したのだった。
精神が高揚し、感情の起伏が多く、慌ただしかった3日間が終わった。
葬式を終えると親族、家族はそれぞれ挨拶を交わし、散っていく。
「お母さん、淋しくなるね」
娘が母親の肩を抱く。
「忙しいところありがとうね。あなたがたがいて助かったわ」
母親は、優しく微笑んで娘一家を送り出した。
集まった家族がよく働いてくれたので、家の中はすっかり片づいた。そのせいで夫の部屋は、前よりずっと広く感じられる。後飾り祭壇の周りにおかれた花が匂い立つ。
ここ数日、家の中には大勢の人間が入ったり出たりで賑やかだった。それが去ってしまうと急に静けさが感じられる。
夫が死ぬ前は、毎日病院に顔を出していた。だが、今は何もすることがない。介護の間は身体が疲れ、たいへんだったが、誰かのために何かをすることがない、という事態に急になってみると、自分でも何をしていいかわからなかった。
食欲はない。病院に行っているときは、食べないで自分が倒れたらたいへんだからと少しでも口に入れるようにしていた。だが、今はそうした理由もなくなった。
気がつくと夕闇が訪れていた。遺影に相対したままボーッとしていたらしい。でも動かなくてはいけない理由も今はない。
現代葬儀考53号(1999.9) 碑文谷創