1.死の問題の多様性と死別の文化

 今日「死の問題」は多様である。
 高齢者にとっては第2次世界大戦という戦争による大量死の記憶がいまだに鮮明であろう。原爆や空襲による被災だけではない。多くの日本の青年が好むと好まざるをえなく、殺される側にも、人を殺す側にも立った。そして今なおアフガン、パレスチナ、イラク…と戦争は止むことなく、殺す者と殺される者を生み出し続けている。怨嗟の声が渦巻いている。

 戦後日本は、貧しい生活を体験した後、朝鮮戦争以降は高度経済成長を謳歌し、太平の中にあった。だが、その日常が死と隣り合わせになっていることを民族体験として知らされたのは、6千人を超える死者を出した1995年の阪神・淡路大震災であったろう。2004年から2005年にかけて大水害、新潟県中越地震、30万人を超える死者・行方不明者を出したスマトラ島沖地震・インド洋大津波…自然の猛威の前にいのち、暮らしがいかに脆くあるかを思い知らされた。アフリカではいまだに餓死で死ぬ子どもが少なくない。
 また、国内では1995年3月20日の宗教的狂信による暴発であるオウムの地下鉄サリン事件があり、国際的には政治的宗教的民族的対立を背景とする2001年の9・11米国同時多発テロ…無差別大量殺戮というテロ、そして無数の小規模テロが勃発し、無関係な民衆が死に巻き込まれるという解決の見えない事態もある。人間の生死が個々の価値を無視され、道具として扱われている。

 その一方で1980年代から「尊厳死」についての話題も賑わすようになった。日本だけではない。アメリカ、オランダ等近代国家でかつ高度医療がもたらす死の問題である。がん等の末期患者への延命治療の是非の問題から、ターミナルケアの見直し、在宅ホスピスの普及へと話は展開している。

 救命医療の進歩は著しく、その結果、かつては死を免れた人が生き延びる一方、脳死状態の患者、植物状態の患者が生み出され、死の境界線が見えにくい状況を引き起こしている。臓器移植はそれ以外の治療法のない患者にとっては福音であるが、他方で先端医療は人間としての倫理の限界線を踏み越そうとしている。医療の高度化と専門性の前で普通の人間のいのちが翻弄されている。
 アフリカやアジアでは乳幼児の死亡率が依然として高い状況にある。

 日本では第2次大戦後急速に保健・医療環境が改善し、乳幼児死亡率の激減と長寿化を達成、北欧を追い越し、未曾有の高齢社会を実現した。それは他方で要介護の高齢者の大量出現であり、病院や施設での死の増加となって現れている。

 他方で「自死」は2000年以降、年間3万人という高水準で推移している。縊首、飛び降り、薬物等の手段により、1日に平均して80人以上が死んでいる計算になる。この数字は「日常」という名の戦場で、終わることのない戦死者が日々誕生しているようなものである。経済不況を背景とした中高年男性の自死、鬱病等の心の病の結果としての自死、そして最近ではネットで仲間を募っての集団死がある。
 こうした特別な死だけがあるのではない。多くの名も知れぬ普通の死が日常化している。31秒に1人、1日平均2805人、年間102万4千人(2004年人口動態年間推計)が死んでいる。死者一人につき家族や親しくしていた人が10人いたとしたら年間1千万の人が、おそらくもっと多くの人が身近な者の死を体験していることになる。

 亡くなる者、死者だけに死はあるのではない。それを看取る者も死を体験する。死にゆく者、それを看取る者、その双方に無数の死の物語がある。そこにはリアルな死がある。
 日本人の死亡率は年間では対千人比で8・1である。だが一人の生涯でいえば、間違いなく100%である。その過程や事情はさまざまであるが、死を免れる者はいない。誰のいのちも有限であり終期がある。その意味では平等であるが、その死に方は突然の災害死をもちだすまでもなく、さまざまであり不平等である。

 このさまざまな死を受けとめる文化装置として、人類は、民族や宗教によりさまざまに形態を異にするが、有史以来葬送文化を形成してきた。日本人もまた死別の文化として葬送文化を形成してきたのである。
 死別の文化を形成してきたのは、死者に対する愛惜はもちろんのこと、かけがえのない家族の一員を喪失したことによる悲嘆であり、家族を喪失したことによる将来への不安等が死によってもたらされるからである。また、死者を埋葬するという物理的な処理、死者なき後の家族が生きる社会との新しい関係づけを必要としたからである。

 だが、この死別の文化としての葬送文化がいま大きな揺らぎの中にある。機能不全になりつつあるのではないだろうかという危惧がある。それは死というものが大きく様相を異にしてきているからである。そしてその背景にあるのは家族の変化、医療の進歩である。
 「多様化」「自由化」「個人化」の名の下に、日本人の死を受け止める文化装置である葬式は、いま社会的コンセンサスを急速に失いつつある。葬式は地域文化と密接に絡んで展開してきたものだから、北海道から沖縄までの長い日本では地域特性が強く残っている。その変化も一様ではない。

 葬儀というのは習慣や宗教との関係が強いものであるから、もっとも変わりにくいものと見なされてきた。事実、地方の山間部には土葬が残されていたり、野辺の送りとしての葬列の風景がいまだに生きていたりする。それは地域コミュニティを中心とした懇切丁寧な葬送であった。だが、こうした風景は、時代に合わないとして簡略化が押し進められ、現代日本では極めて例外的なものとなってしまっている。
 現在葬儀に関してはかなりの変化と多様化が見られる。その変化の一つに「お別れ会」の流行がある。これは歴史的にとらえるならば告別式の独立形態といえる。大正期に「告別式」が登場してきたとき、当時の僧侶はそれを「耶蘇っぽい言葉だ」と言ったそうである。今は「告別式」という言葉自体が古くなって「お別れ会」と言い換えられる時代になった。

 元来、日本(とは必ずしも限定できないが)の葬儀は、コミュニティ(地域共同体)が中心となって行うところに特徴があった。しかし、今日では急速に葬儀の担い手が個人化してきている。それに伴い葬儀にもかなりその人らしさ、個性が現れるように変わってきている。
 昔「葬儀のことはわからなかったら年寄りに聞け」と言われたものである。しかし、都市部(何も東京や大阪近辺の話ではない)においては、高齢者さえも葬儀のことがわからなくなってきている。

 最近よく公民館や消費生活センターから葬儀や墓についての講演を依頼されるのだが、ここには高齢者が多く集まる。60代・70代の方が中心で、その人たちは自分の葬儀について聞きたくて来ている。その人たちに葬儀について聞くと、ほとんど知らない。昔と違って、今の高齢者は、特に80歳未満の人は「戦後派」なのである。戦後、都市化で多くの人が地方から都会に来たが、若い時に都会に出たものだから地方の習俗についてもよく知らない。都会に出てくれば近所のお葬式を手伝うでもない。手伝うといっても受付くらい。ほとんどは焼香に参加するだけだから、ある意味、わからなくて当然なのである。

 1960年代から70年代にかけて、ちょうど「核家族化」が進行した頃、日本の葬儀は大きく変化した。葬儀の運営の中心はコミュニティから葬祭業者に替わり、共同体の中で伝承されてきたさまざまな習俗がそこでぷっつり切れてしまった。担い手が葬祭業者となり、葬儀の習俗は、葬祭業者から教えられて、遺族は消費者として行動する形になった。90年代の中期以降、「家族の分散化」が進む中で、葬儀の個人化が加速度的に進み、従来片隅で営まれていた密葬が「家族葬」という名で市民権を得るなどしてさらなる変化をしようとしている。いまもう一つ特筆すべきは地方の葬儀習俗の急激な衰退であろう。葬儀の場所が斎場(葬儀会館)に移動することにより地域コミュニティの葬儀から葬祭業者の手になる葬儀への移行が急激に進んでいることである。

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