現代の死

2.死因で見る死の多様化

 死亡原因は、03年の人口動態月報年計で見ると、表1のようになっている。
 (表1)死因
    (1)悪性新生物  309,465人
    (2)心疾患    159,406人
    (3)脳血管疾患  132,044人
    (4)肺炎      94,900人
    (5)不慮の事故   38,688人
    (6)自殺      32,082人
    (7)老衰     23,446人

 悪性新生物(がん)が約30%で依然トップである。3人に1人近くががんで亡くなっている勘定となる。一時は不治の病と恐れられたが、早期発見による治癒率も向上している。まだまだ問題はあるが、一時に比べれば、医師と患者の関係ではインフォームド・コンセント(説明と同意)も改善されているし、末期ケアのあり方についても患者・家族の選択肢が拡がっている。

 自己決定の伴う「尊厳死」が問われるようになったきっかけは、末期がん患者の延命治療の是非の問題であった。患者の生命の質を問わない、むしろ犠牲とした延命優先主義の見直しであった。医療関係者の努力や世論の高まりを背景にして、患者自身の生活の質とバランスのとれた治療やケアがなされるようになってきたのは評価できる。だが、他方では患者の治療選択権という名の医師の専門家としての治療放棄もまた生まれている。もう一つは、この「尊厳死」が一人歩きしてしまう危険性である。知的障害者、脳障害者の人格や生存権の否定にまでいきかねないとすると、どこかで歯止めが必要であるように考えられる。
 がんによる死亡者が多いが、末期の場合それは「予告された死」という特徴をもっている。告知された本人が、その告知による予告をどのように受け取るかという問題がある。

 キューブラー・ロスがその過程を「否認と孤立」―「怒り」―「取り引き」―「抑鬱」―「受容」ととらえた。ターミナルケアのあり方も、身体的苦痛、精神的苦痛に対処するだけではなく、もっと根源的ないのちのありようという宗教的要素も加えた「スピリチュアル・ケア」の必要性が提唱されるまでになってきている。
 また、残る限定された時間、日をどのように過ごし、後に残る家族にどういう想いを託そうとするのかという問題がある。
 それだけではない。家族も死の予告に立ち向かわなければならない。ホスピス・ケアが、死にゆく患者本人へのケアに留まらず、それを看護し、患者本人の死後も遺される家族に対するケアも課題としてきている。
 後期高齢者の場合、加齢もあり、そのターミナルはがんの手術による治療・延命というよりは、がんとの共生による穏やかな死という選択が多く、本人も家族もそれを希望することが多い。だがそうでない場合の末期がん患者本人とその家族の葛藤は深い。

 死因の2番目と3番目にある心疾患や脳血管疾患は、他の病気で療養していたが末期に疾患が訪れるということもあるが、しばしば突然に発症する。脳血管疾患による死の6割は脳梗塞であり、心疾患による死の3割は急性心筋梗塞である。本人にとっては突然のことであり、家族も動揺の中、数日間看護するだけで死を迎えるということがある。
 死因の5番目の「不慮の事故」の場合も長期の療養ということもあるが、その多くは突然である。
 こうした突然の「予期されない死」の場合、家族はショックのため現実感覚を失うことが多い。事故等の被害者になった場合には加害者に対する怒りとなって現象する。「予期されない死」を受け入れるためには原因・理由がなければならない。それが持病や加齢のためであれば納得もしやすいが、理由が不明な場合には、周囲の健康管理方法であるとか「犯人捜し」が始まる。それが他の家族に向けられたり、家族自身の自責となって現れることも少なくない。

 6番目の自殺は、年間死者が3万人を突破して以来新聞でも大きく取り扱われてきた。10代での死因のトップは不慮の事故で2位が自殺、20代・30代ではトップが自殺となっている。40代でもトップは悪性新生物であるが2位に自殺がきている。老年期の自殺も少なくない。特に目を惹くのは、中高年男性の自殺が増えたことである。バブル景気崩壊後の不況、それに伴う社会心理的混乱等に起因して精神的疾病が発症したためと推定されている。現代は大変なストレス社会なため鬱病が多くなっている。自殺者の8割以上は鬱病と関係していると推定されている。
 自殺というのは一見極めて意思的な行為に見られがちである。自分の生死の自己決定の最たるものと考えられがちである。しかし、自殺のほとんどが、その人が意思的に選んだ結果ではないと思われる。社会的要因、人間関係要因、精神的要因で追い込められ心的に病を発症した結果、自殺に至るというのがそのほとんどではないだろうか。欝病に至るにはさまざまな要因があるだろう。だが欝病になると視野狭窄をもたらし、死以外の生の選択肢を本人から奪いがちである。

 これまで統計だから「自殺」という表現を用いたが、私は自殺でなく「自死」という言葉を用いる。「自殺」という言葉は「自分を殺害する」という意味であるから、倫理的に悪であることを無意識に前提とした言葉である。だから「自殺はいいか、悪いか」という倫理の問題として論じられることがしばしばあるが、そう見ると問題は逸れてしまうように思う。自死という不自然な手段を採るが、その実態は心的疾患に起因する病死に等しい。
 だが他方、自死が遺族に与える傷は深い。家族から言い訳を奪う。病気による死の場合は病気に原因を、事故の場合には石や車に原因を求めることができる。それぞれ死の受容は容易ではないものの、原因を死者以外に向けることができる。自死はそれが困難である。そのため家族が自らを苛み傷つく可能性が極めて高い。自死遺族の一人は「急に足元の地面が消えた感じ」とその衝撃を語る。

 死因のあれこれを考えると私は思う。人間の身体、心は脆い存在であると。死と隣り合わせなのだと思わざるをえない。

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