「墓不要論」が散骨理解の拡大と共に広がっている。
こうした流れを促進した「葬送の自由をすすめる会」の「自然葬」に対して真言宗智山派の宮坂宥洪水氏が批判している。(「散骨問題『自然葬』への反論」密教21フォーラムHP)
氏は「葬送の自由をすすめる会」が「墓は日本古来のものではなく、庶民が墓を造るようになったのは江戸時代の檀家制度以降のこと」として墓の本来性に疑問を投げかけているのに対して「縄文の昔はドングリを主食にしていた。だから何も日本人だからといって米を食べなければならない決まりはない」とでも言っているようなものだと笑う。
氏は、はるか昔は庶民は墓を造らなかったし、墓を造れる人は限られていたという事実に同意しつつ「ところが室町時代から江戸時代にかけて一般庶民も墓を造るようになり、ひとりひとりがきちんと供養してもらえるようになった。それは画期的なことだった。それが今では常識となった。こういう文明史的展開を遂げてきた経過がある」と述べ、会の主張を「野蛮の奨励」とまで断じている。
仏教の民衆展開が近世に民衆の生活力の向上と相まって、葬祭をキーとして民衆に広く展開していった。中世までは民衆には葬りに際して葬式をして供養をする価値がない、つまり霊という一人前の人格がないと見なされていた(民衆が葬式をしなかったというのではない)。これに対し、民衆の死も供養される対象であることを、民衆に展開していった仏教が、理論ではなく実践していったことが民衆の幅広い支持を受けた。その結果、村々に民衆が檀家(支え手)となり寺が造られていった。この民衆に対する仏教の影響力を無視できないものとして認めた徳川幕府が法制度的に支配の構造の中に組み入れたのが檀家制度である。
葬式をして供養され、墓を建立するようになることが、民衆の社会経済的かつ政治的地位の向上や自立を象徴するものであった。これを精神的かつ宗教的に根拠づけたのが仏教であり、それゆえ仏教が民衆展開においては「葬祭仏教」として機能し、大きな支持を集めたのである。
このことは大きく評価されていいだろう。また、こうした歴史的評価を欠くことは正当ではないだろう。
しかし、今「墓不要論」「葬式不要論」が出てきている背景を見てみると、「墓はいらない」「死者は葬られる必要がない」という単純・短絡的なものばかりではない。これに対して「墓や葬式は大切ですよ。これまで人類・日本人が大切に培ってきた伝統であり文化である」と主張するだけでは解決にならないように思われる。
現在の墓も葬式も江戸時代のものと連続性はあるが同じものではない。「伝統」という名で一緒に括ってしまうのは少し乱暴である。伝統も時代により変遷していくものなのである。変遷する中でよく変わるものもあれば悪く変わるものもある。それを見極めないで「伝統だから守るべきだ」と主張するのは単なる現状の保守でしかない。「文化」とは形態を単純に守るものではなく、核心を見定めて育てていくものである。
墓に対する疑問の最も大きなものは「家墓」に対してであり、承継が前提とされている点である。
国立社会保障・人口問題研究所の予測によると、2020年には、家族の様相がさらに変化する。現在は夫婦と子からなる世帯が最大割合を占めているが、単独世帯がトップになる。平均世帯人員も、90年には3人を割り込み2・99人になったが、2020年には2・4人までに減少する。高齢世帯も増加する。少子高齢化に加えて家族分散が急速に進行中であり、もはや「核家族」という言葉すら古くなりつつある。
こうした変化の中で「家(イエ)」自体が幻となり、家(イエ)観念を基本とした墓が揺らぐのは必至な情勢となっている。「伝統からの自由」というよりも、家墓という伝統(明治末期以降のものだが)自体が成立する根拠を失ってきており、これが墓の多様化現象を招いているのである。
葬式にしても、少子高齢化、家族分散の波を大きく受けている。経済状況も高度経済成長期と大いに異なる。
日本の葬式は、地域社会、家を基盤として成立してあったが、これに高度経済成長期には企業が加わり社会儀礼色を極端に強めた。これが「伝統」と言われる現在の葬式である。この基盤が大きく変動しているのである。
問題は、墓とか葬式のこれまでの様式(今定着している様式は高度経済成長期につくられたもの)を「守る」ことではない。現代に生きる人々の生活意識を反映した形で、死者を弔い、死者と遺族の関係を大切にし、人間の生と死を深く考える機会とする葬送を実現するにはどうしたらよいかということであろう。
「墓不要」とは「現状の墓批判」であり、「葬式不要」とは「現状の葬式批判」である。なぜ墓が大切にされ、葬式が大切にされてきたのか、という精神こそが問われ、継承されるべきなのであって、現状の形態だけが固守されるべきではないだろう。
規範や伝統が人々に支持されて生きるぶんには問題はないが、強制になると反動を生む。これから危惧されることは、死を軽視し、死者を蔑ろにし、家族と死別した遺族の悲嘆を顧みない風潮が高まり広がることである。
それぞれの気持ちに合致した葬送の形式が生まれ、多様化していくことが問題なのではない。多様化することにより、それぞれの気持ちにフィットして、そこで弔いが成立しているのであるならば何の問題もない。形態は固守しても弔いの心が喪失した葬送よりずっといいのは確かなことである。
今の変化は、米からドングリに戻すというものではない。米をやめてパンにしろというのでもない。米も、パンも、蕎麦も、麦も、パスタも、ドングリでさえ、それぞれの好みに合って選んでいいのだよというものである。
確かに過去の否定にはしりがちであるが、過去の単なる否定も健全な未来を生むものではない。
転機に立っている葬送文化。継承と創造は大きな課題としてある。
現代葬儀考57号(2000.5) 碑文谷創