現代の死

3.死の概念の変化

 65歳以上の人口が全体に占める割合を高齢化率という。2005年1月現在の概算値は19・6%となっている。地方によっては過疎化が進み、都市部に比べて高齢化率が高くなる。よく「高齢化社会」というが、この「化」が取れて、すでに日本は「高齢社会」となっている。
 65歳以上の死が全体に占める割合は80・7%(03年)である。死亡者の5人中4人が高齢者である。特に80歳以上が46・2%で、今この80歳以上の死亡者の比率が高齢化に合わせてどんどん高まっているのが特徴である。

 このことはあたりまえのように思うかもしれない。「年寄りが死ぬのが最も多くて何が不思議なの」と思うだろうが、これは日本の長い歴史を見れば最近のことなのである。昭和の初期の頃は80歳以上で亡くなる人は全体の3~5%というところであり10%を超えることはなかった。
 今は子供が成長し、少年期、青年期、成年期、壮年期、老年期があって、そしてその先に死がある―と理解されている。いまは老年期も65歳から75歳未満の「元気な」前期高齢者と75歳以上の「介護を必要とする」後期高齢者に区分されるようになった。しかし昔の場合は、必ずしも人生計画の最後である老年期に達した後に死があると理解されていたわけではない。もし老年期までを人間の生全体として考えるならば、過去の日本人の多くは最終期まで到達しない「途中での死」が多かったのである。

 中世来の無常観というのは、簡易にかつ卑属に解釈するならば「死はいつ誰に起こるかわからない」ということであったろう。日本人の伝統的な死の観念というのは老年期の先にあるものではなく、いつ、誰に訪れるかわからないものとして理解されてきた。現実に日本人の死の状況というのは半世紀前まではまさにそういうものであった。
 それゆえ65歳以上の死が8割を超し、かつてはレアケースでしかなかった80歳以上の死が半数近くなることによって、「納得しやすい死」が増えていると言えるだろう。人生の活躍期を終え、「もう歳だから」と本人も家族もどこかで言い訳でき、納得しやすいからである。もちろん高齢者の死も家族に喪失感をもたらす。特に遺された配偶者には喪失感が強い。

 また次のようなこともしばしば見られる。後期高齢者の死の場合、多くの場合、その看護、介護の期間に家族はいずれ来る死を予期していることが多い。この長い予期の期間に気持ちも準備してソフト・ランディングとなるケースが少なくない。現在の高齢者、特に80歳を超えての死に際して行われる葬儀で、重苦しくなく、どこか平穏な雰囲気を感じられることがしばしばあるのは、こうした事情によるだろう。
 逆にいくら高齢者の死が全体の8割を超したとしても、2割近くの死はそうではない。不慮の事故による死者も約4万人。がんによる死が多いことからわかるように、死は高齢者以外にも、突然にも訪れる。しかし、突然の死、あるいは若くての死は、今は例外のケースになるので、そういうものに対する対応力がなくなってきている。これは各個人の覚悟の問題ではなく。死者が出たときに、その遺族をいかに手厚くフォローし、ケアする社会の態勢のことである。そうした葬儀では遺族・関係者の悲痛が露呈される。あるいはその悲哀が遺族の胸に抑え込まれる。

 人生に充実感をもち、充分な長さを生き抜き、健康で病院や施設の世話を受けず、家族にあまり負担をかけることなく、できるだけ自然に死ねたら本人は満足だろう。家族もそれなりに介護や看護ができて静かに看取ることができたら納得しやすいだろう。でもそんなに都合のいい死ばかりではない。
 そもそも人生に充実感をもてるということ自体が難しいし、いい人間関係、いい家族関係を作るのも難しい。どこかに欠けがあるほうが普通だろう。また、長生きしたからいいわけでもないだろう。単に死が、本人の生活の質を無視され、引き延ばされることもある。看護や介護で家族が体力的にも精神的にも疲労困憊に陥ることだってある。あるいは看護や介護する人がいなく尊厳を無視されて施設で飼われるようにして終末期を生きなければいけないこともある。看護も介護もなく「孤独死」するケースもある。
 いい死に方というのは結果としてあっても目的とはできないものだろう。なるがままに人は死ななければならない。それは生き方が自由にならないのと同じことである。

 葬儀の習俗には死穢観念が色濃く反映しているが、それは死をリアリティのあるものとして、どの世代においてもとらえられてきたからということに起因すると私は考えている。確かに、同い年の人が死ぬと死に巻き込まれないように豆を食べて「年違え」するなど、徒に死を怖がっているように思える。だが、そうした俗信、死穢観念の背後には、死がいつくるかわからないという緊張感があったと思われる。かつてと現在の死の状況には大きな違いがあり、現在の死の態様にも大きな問題がある。
 いまは死ぬのは高齢者、死ぬ場所は病院、葬儀の場所も自宅以外の斎場等で行われることが多い。死が生活の中から離れ、別処理化されていっている。葬儀の担い手もかつては地域共同体であったが、これも葬祭業者に替わってきている。管理される死、そして消費される葬儀、これが現代日本の死と葬送の一つの局面である。

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