現代の死

4.死の判定―心臓死と脳死

 今、法律的な死の判定は医師によってなされる。死の概念は、これまでは心臓死のみであった。もちろん「心臓死」という言葉も「脳死」という新しい死の概念が登場して、振り返って従来の死の判定法に名づけられたものという(小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』PHP新書)。

 従来の死の判定法、つまり心臓死の判定法は、成文化されたものではないが、医学的には「死の3徴候」として定着していた判定法である。つまり呼吸停止、心拍停止、瞳孔散大・対光反射消失の3つである。
 近代的な医学的死の判定法が確立する以前は、息をしない、心臓が拍動しない、脱力して動かない、冷たくなる…などの生命活動の停止をさまざまな形で観察した結果を「死」としていたのだろう。さらに遺体を置いておけば腐敗を開始し、腐臭を発し、そのうち身体は硬直する。死の瞬間ははっきりしなかったが、死の状態は観察できたというべきなのだろう。中世でも鼻の上に紙をのせて、動かないことで死を確認したというから、呼吸停止が最も顕著な判定法だったのだろう。しかし仮死や蘇生もあったから一定時間観察することは知恵としてあっただろう。
 墓地埋葬法で死亡後24時間以内の火葬または埋葬の禁止をうたったのは、生者埋葬の心配があったからである。現在は死因に疑義が出たときの解明のために遺体が保存されていれば便利であるという犯罪捜査の観点で残っている条項である。

 医学的には定着していた「死の3徴候」による死亡判定(心臓死による判定)に最近「脳死判定」により死亡を判定(脳死による判定)するという方法が加わった。日本では法律的には97年施行の「臓器移植法」による。
 人工呼吸器の新たな開発により、脳死に至っても心臓を動かすことができるようになったことが脳死を生み出した。科学技術の発達がもたらした新しい死である。しかし脳死は誰にでも起こるものではなく、死亡者の1%足らずがその対象ケースとなる。日本では本人の事前意思表示と家族の同意がなければ脳死判定そのものが行われないことになっていて、脳死判定は時間をおいて2回に分けて行われる。「臓器移植術に使用するため」と法律本文に規定されており、脳死が確定した場合、予め申し出ていた範囲の臓器が提供される仕組みとなっている。
 このようにさらっと書くと問題がないように思えるが、個体の死という問題では大きな問題を内包している。

 まず脳死についての経緯を簡単に見てみよう。
 「脳死」と「心臓死」との間に時間的な差異、タイムラグがあるケースについてはすでに19世紀末に知られていた。しかし脳死が問題とされるのは1967年南アフリカでバーナードにより世界最初の心臓移植手術が行われて以来である。
 68年ハーバード大学が「不可逆的昏睡」の定義を発表。(1)刺激に対する無反応性、(2)呼吸停止、(3)反射の消失、(4)脳波の平坦化、を脳死判定基準とした。81年にはアメリカ大統領委員会で「死のガイドライン」が出され、日本でも85年に当時の厚生省研究班がいわゆる「竹内基準」を発表、現在の脳死判定基準の基礎となった。

 日本における脳死の判定は、法律で定める、死亡した者が生存中に臓器移植のための臓器提供ならびに脳死判定を書面で表示しており、家族もそれらを拒まない場合であって、施行規則によれば「原疾患に対して行い得るすべての適切な治療を行った場合であっても回復の可能性がないと認められる者について行う」とされている。但し、6歳未満、急性薬物中毒にある場合、直腸温が摂氏32度以下、代謝性障害または内分泌障害による場合は除く、とされた。

 脳死判定は6時間おいた2回の判定により次の5点の確認をもって行う。
 (1)深昏睡
 (2)瞳孔が固定し、瞳孔径が左右とも4ミリメートル以上
 (3)脳幹反射(対光反射、角膜反射、毛様脊髄反射、眼球頭反射、前庭反射、咽頭反射および咳反射)の消失
 (4)平坦脳波
 (5)自発呼吸の消失

 臓器移植のため以外の場合、あるいは臓器移植を希望していても臨床的脳死と判定されない場合には従来の心臓死によって死が判定される。脳死判定される場合には2回目の判定時刻が死亡時刻とされる。

 次に「脳死をもって人の死といえるか」という問題である。もちろんその前に何をもって人間の死というのかという問題が存在している。脳死は脳という臓器の機能停止にすぎないのではないか。それを人間の「死」としていいのか、という問題である。脳死患者はほとんどが1週間程度、長くても1カ月程度で心臓死に至るとされている。だが例外も数は少ないがある。長期的な慢性脳死患者もいる。するとそれは人間として生きているとは言えないのか。人間とは何か、どういう状態を言うのかという基本問題に深く関わってくる。
 また「脳死とは何か」である。イギリスでは脳幹の機能停止であるが、日本は米国、ドイツ等と同様に全脳死説を採っている。法律には「脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止」したと判定するとある。
 脳は、基本的生命活動をコントロールする脳幹、その後ろにある身体の運動や行動を微調整し、平衡感覚を微調整する小脳、それを覆う大脳からなる。大脳は食欲、性欲など原始的本能を司る古い大脳と人間特有の高度な運動・知覚・精神活動の場である大脳皮質からなる。(竹内一夫『脳死とは何か』講談社)

 「植物状態」と「脳死」は異なるというのは国際的に一致した見解である。植物状態は大脳皮質の障害で、脳幹そのものは生きている。
 しかし、「植物状態」と「脳死」を正確に区別できる人がどれだけいるだろうか。脳死を死とする見方は脳障害者の人格否定に道を拓くのではないかという危惧がある。これは自己の長期の植物状態を否定する尊厳死宣言(リビング・ウイル)の問題とも関係してくる問題である。
 おそらくこれはいのちを客観的に定位することが困難であり、自分の人間としてのいのちと家族の自分にとっての人間としてのいのちの間にある、確実な距離を意味しているのであろう。自分は植物状態で生きながらえるのは自己の人間としての尊厳を損なうと考え、他方、かけがえのない家族の場合には、万が一の回復の可能性に期待し、あるいはたとえ植物状態であっても生きながらえてほしいと考える。論理的には矛盾するが、人間として不可避な矛盾である。

 脳死問題にはさらにいろいろな問題がある。施行規則で定められた判定基準がはたして適切かという問題がある。脳死状態になっても脊髄は生きているので刺激により上肢、下肢が曲がるような反応が見られることがある。まだまだ脳についてはわからないことが多いのではないか。

 そして「そもそも臓器移植を目的として作り出された死ではないか」ということがある。脳死論議はまさに心臓移植を動機としている。心臓死を待っては不可能な生きた臓器・組織が脳死状態では医学的、薬学的に利用可能にするためではないか、という根本的な医学技術の開発方向への疑問がある。これは死後の善意による他者の生への貢献として脳死後の臓器移植を積極的に肯定する考えがある一方、他方では脳死後の臓器移植を社会がすでに受け入れているアメリカで見られるような、人体の商品化になるのではないかということを危惧する考えがある。
 今、日本では、臓器移植法の改正も議論されている。本人の明示による反対の意思表示がなければ家族の同意だけでよいとか、6歳未満の小児の脳死判定および臓器移植に道を拓こうとするものであるが、これが臓器移植を待つ患者にとって福音なのか、それとも人間としてのいのちを考えると危険な道を拓くものであるのか議論があるところである。

 脳死の問題は先端医療技術の問題である。だからどうでもいいわけではないが、残り99%の大多数の死亡が判定される心臓死の臨床現場も実は危うい問題を孕んでいるように思う。

 昔と異なり、医学は80年代以降大きく発展し、症状によっては延命がある程度(3日、7日、30日)コントロール可能な技術水準にある。そこで家族の意思や医療側の事情で、「死の瞬間」が人為的に操作されるということが現に起きているのではないか。
 適切な医療によって生きながらえ、不適切な医療によって生きるべきいのちが縮減される…と言うことが可能ならば、不適切な医療によって生きながらえ、適切な医療によっていのちが縮減される…と言うこともできる。何を、誰にとって「適切」「不適切」と言うべきか。その基準が曖昧というよりも、関係によって変わってくる。その個々の関係、状況に医療技術者だけではなく、家族も巻き込まれ、判断を迫られている。

 個人的に危惧することは、あまりに医療技術に人間の生が依存しすぎているように思えることである。もっと自然な生と死があっていいように思う。
 高度な延命技術によって数日間生物的生が生き延びることよりも、家族に見守られ、静かに看取られることのほうが人間らしい死とは言えないだろうか。あるいは一時の延命処置により死の猶予が与えられ、家族は死に対する心の備えをする時間が与えられるかもしれない。しかし、それは便宜に思えてならないのだ。人間の生死が医療技術とそれに対する判断で左右されているというのは、いまや現代人が抱える不可避な問題である。だが、これは「進歩」であるかもしれないが「不幸」でもある。

広告
現代の死に戻る