現代の死

5.デス・ケアという視点

 北米では「葬祭業」のことを近年では「デス・ケア産業」と呼ぶことが多い。人間の死後に関係するサービスの総体を指して言う。
 ホスピスでケアの対象が患者つまり本人だけではなく家族のケアが大きな問題であり、患者本人の死後は遺族となった家族のケアも視野に入れられてきている。同様に、葬祭業においても「死後」だけではなく、本人と家族の生前の関係を引き継いでケアするものでなければならないだろう。とするならば日本においてもデス・ケアという視点で葬祭業のあり方を考えることは重要なものと言えよう。

 北米ではデス・ケアを主として死者本人に対するケアである遺体のケア、つまりエンバーミングと、遺族に対するケアであるグリーフケア、という2つの視点から考える。これは極めて示唆的である。
 葬儀のケアの対象は死者本人とその家族である遺族だからである。この2つのどちらかが欠けても、あるいはどちらかに偏っても葬儀というのは不完全であるように思う。そしてこの2つの主人公は重なり合っているのである。

 葬儀が死者本人のためか、遺族のためか、というのは実は不毛な議論なのである。死者本人のために行われない葬儀は遺族にとっても意味のない葬儀であるからだ。近年の葬儀を巡る混乱の一つの要因は、葬儀を何のために行うか、という自明なことが、必ずしも自明でなくなっていることにあるように思う。

 日本の古来の葬儀にしても、このことは自明かつ明確であった。
 死後の通夜は、遺族関係者は死者に食事を供したり、寝ずに守ったりして、死者にひたすら仕えた。そしてそれは同時に、遺族が死を受け入れるための準備作業であった。
 遺体を浄めるための湯灌は、死者の罪障を浄め、葬りの準備をすることであり、遺族はこのために自ら作業に加わったのである。
 死者の往生、成仏を願う葬儀式は同時に遺族の安心のためでもあった。
 葬儀後、四十九日までは中陰壇で、それ以降は仏壇で、遺族は死者をひたすら供養する。それは同時にそれは遺族のグリーフワークとして営まれた。
 日本の葬儀を見直してみれば、それがひたすら死者のために営まれ、それが同時に家族を喪失して深い悲嘆の中にある遺族のためにも意味深い営みとしてあったことが明確である。

 森岡恭彦(東大医学部名誉教授『死にゆく人のための医療』NHK出版)は、死に至るプロセスを「生物学的死」といい、葬儀を「社会的死」と分類している。だが、それは正確ではない。そもそも医学的死は個体としての死の判定であり、生物細胞としての死は個体の死以前からも発生するし、個体としての死以降も生物細胞はしばらく生きる。さらに医学的死に至るプロセスにおいては本人とその家族の葛藤、看取りがあるのであり、生物学的に留まらない人間的なプロセスとしてある。
 また葬儀という医学的死の後のプロセスを「社会的死」と規定するのも大雑把すぎるように思う。確かに死者の供養・埋葬、死亡届の提出、遺産相続等は法律的には「死後の事務処理」という概念に包摂されるものである。社会的に生きた人間であるから当然にも社会的事務処理が伴う。だが葬儀とそのプロセスは精神的・宗教的・文化的な営みとしてもある。
 医学的な個体の死の判定が点であるのに対して、葬儀は、遺族が死者を弔い、死を受けとめるために時間をかけて営む心的プロセスを内包している。

 だが、死者と遺族にのみ焦点を合わせると、これも従来の日本の葬儀ではない。主要な要素であるがそれだけではない。死者と遺族に限定すれば、それは喪家の個人的な営みであるが、日本の葬儀は、それを運営する者として地域共同体が不可欠の要素としてあったことも記憶しておかなければならない。
 死者・遺族・地域社会…という関係は並列的なものではない。死者を供養する者として遺族がいて、その遺族をケアする存在として地域社会が存在するという構図である。
 それゆえに葬儀には死を社会的に告知するという社会的機能はあるが、地域社会の関わりの最も大きな精神的要素は「共感」なのである。

 そして90年代後半以降特に顕著な日本の葬儀の変化は、地域社会の関係の衰退という点である。勢い社会性を失い、個人化の方向に進まざるをえないのである。
 そして今、死者と遺族を有機的に結びつけていた家族という紐帯、宗教的関係もまたあやふやなものになりつつある。
 葬祭業がデス・ケアのプロフェッショナルであろうとするならば、葬儀の原点を再構築し、葬儀を意味あるものにしていく必要があるだろう。

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