現代葬儀考

葬式を放棄する遺族

 

 結婚において、結婚届を出さない事実婚や結婚届を出すだけのものなど、「地味婚」が流行している。
 これに少し遅れる形であったが、葬儀においても「地味葬」が今増加しつつある。
 結婚は当事者の問題であるから、2人がそのことに同意・了解していればそれでよい。周囲の関係の問題はあるものの、それは生きている2人が解決していく話である。他人がどうこう言う問題ではない。

 葬儀における「地味葬」はこれとちょっと異なるように思う。遺族の勝手にならざるを得ないが、もたらす問題は異なる。
 遺族の勝手といっても、もう一人の主役である死者がいる。死者本人の勝手といっても遺族や周囲の人の問題がある。
 死というのは死者だけのものではない。その生を切り結んできた人にも及ぶ。死は共同的なものである。

 実際に「地味葬」といってもいろいろある。
 極端な形は、死亡届を出して火葬をするだけ、というものまである。火葬場では火葬後の遺骨の拾骨を拒否する家族も出てきた。
 でも、次の話に比べたら、火葬場まで遺体をもっていくだけまし、と思えてくる。

 老人施設の職員に聞いた話である。
 今、親を施設に入居させた後、見舞いにすら来ない家族が少なくないという。
 1/3の家族は熱心に通い、1/3の家族はたまに通い、1/3の家族はほとんど来ない。
 それぞれの家庭には、それぞれの事情があるのだろう。家族の関係が複雑化して、他人にはうかがえないことが多い。

 その入居者Aさんの場合には、家族はいるのだが、見舞いに来ることはなかった。
 職員が息子に電話をして、Aさんが身体が弱ったことを告げても、ついには危篤と告げても、息子は来ようとはしなかった。
 Aさんは職員だけが見守る中で息を引き取った。

 親の死を知らせた電話先で、息子はこう言い放った。
「そちらの施設で葬儀をしてくださいませんか?」
 その後、どうなったかまでは聞かなかった。
 見舞いにすら来ないだけでなく、親の死の処理すらしようとしない、…それほどまでに複雑な葛藤が、このAさん親子にはあったのだろうか。

 家族の死は、遺された者たちに、しばしば大きな精神的衝撃を与え、悲嘆(グリーフ)をもたらす。たとえ大きな葬儀や法事をしたとしても、この遺族が抱える死別の悲嘆を、社会が、周囲の人が充分に顧みることが少なかったことが、今、「生と死を考える会」などが問いかけていることである。
 だが、それと全く対極の現象が社会に広がっているように思える。
「家族の死を冷淡に受けとめる遺族」である。
 核家族から家族分散へと進み、生活の場を共有していない家族が増えている。仮に住居を共有したとしても、家族の間に断絶があり、心が通わない家族もいる。
 17歳の少年の殺人問題などで家族の解体が言われているが、何も少年少女を抱える家族だけの問題ではない。家族の解体は形態の変化以上に進行している。

 看取りは家族全体で行われるのではなく、かぎられた家族の担当するところとなることは少なくない。家族の死に立ち会うことを拒否する家族もいる。
 少数の家族に悲嘆が集中し、多数の家族の心には、死そのものが何の影響も与えない…そんな家族が増えている。
 それだけではない。家族の終末期を他人や施設・病院に預けることにより、家族全体が家族の一員の死に無感動・冷淡になるケースも生まれる。 高齢者の死が一般化することにより、その高齢者を抱えた家族が、家族の一員の死という本来2人称の死でありながら、あたかも第三者である3人称の死と同等に見なす、そうした遺族の増加である。

 こうした遺族たちは、家族の死で仕方なく葬儀の場に現れ、時間が過ぎたら、何ごともなかったかのように、またそれぞれの生活の場に帰っていく。
 葬儀はひたすら無難に行われることを願い、あるいは、可能ならばできるだけ簡略にと願う遺族の増加である。
 現場の人たちからの報告によれば、「地味葬」ブームの中で、こうした遺族たちの増加があるという。

 地味葬そのものが問題なわけではない。今まで社会儀礼に偏向してきた葬儀が、遺族の悲嘆ということを配慮しないで、疎外してきた面があるのだから、遺族の想いだけを大切にして葬儀を営もうとする人たちがいてもいい。
 だが、地味葬や密葬のブームに便乗する形で、家族の死に対して冷淡で悲しまない遺族たちの死体処理行為が正当化されていいことではないだろう。
 これは形態の問題ではない。人並みの葬儀を営んでも、その実態は、弔う心を欠いた死体処理行為以外の何ものでもない葬儀はあるのだから。
 この現象は、無論、今始まったものではない。いつの時代にも、少しずつあったものである。
 しかし、近年の地味葬ブーム、密葬ブームの中で、大きく顕在化してきたことは事実である。
 単なる死体処理行為として葬儀を営むことを、恥じらいもなく、正々堂々と行う遺族たちの出現である。

 この流れをくい止めることは、家族の解体がますます進むだろうと予想されている以上、残念ながら不可能であると思う。いくら伝統儀礼の大切さを口をすっぱくして言ったとしても変わることはないだろう。
 死別の悲嘆(グリーフ)が問題になるのは、死ということが、死者だけに起こる出来事なのではなく、生をそれぞれの形で共有したゆえに、周囲の近親者にも及ぶからなのである。
 もっとも身近な存在であるべき家族が生を共有しなくなったとき、そこで発生する死は、悲嘆の対象ではなく、義務としての死体処理だけになる。
 弔うことのない葬儀の横行は、21世紀の大きな課題として私たちの前にあるように思う。

現代葬儀考61号(2001.1) 碑文谷創

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