現代葬儀考

デフレと葬儀

 

 政府がデフレを宣言。
 広辞苑によれば、デフレーションとは「通貨がその需要量に比して過度に縮小すること。通貨価値が高くなり、物価は下落するが、企業の倒産、失業者の増大など不況や社会不安を伴う」とある。

 政府の施策が問題となっているが、今回の不況は消費者が主導権をもった我慢比べだという説がある。戦争直後の状況とは異なり、モノが溢れている時代である。消費者はもっと消費を抑えても困ることはない。
 商店は値段を下げて、コストを無視してでも消費者に買わせようとするが消費者は踊らない。
 こうしたマインドが、近年の葬儀単価の下落の背景にあることは確実である。この不況を脱すれば、今のような急激な下落はやむだろう、と不況脱出を願う事業者は多いはずである。

 葬祭市場を見ていると、2割引き、3割引き、中には4割、5割と割引を競っているところがある。標準的な価格があるわけではないから、従来の自社価格比ということになる。おそらく各社とも消費者を獲得するために無理をして下げているのだろうが、これまでの価格はどうだったのか、という価格に対する信頼性が大きく揺らぐ事態になっている。

 消費者にしても、家族を弔うのに、「どう弔うか」よりもひたすら価格にのみ関心を抱く人が少なくない。
 葬祭事業者にとって深刻なのは、消費者の葬儀観が、この不況と同時に変化を開始したことである。
 社会的儀礼としての葬式から個人儀礼としての葬式への変化である。全てではないが、3割程度の層においてこの変化が顕著となっている。
 社会的に人並みの葬式をしたいという層が減少し、死者を知る近親者中心に心を込めて弔うのがいい、という考え方が増えたことである。
 なぜ深刻かといえば、こうした葬儀観の変化は、仮に不況脱出によっても戻ることがないからである。むしろ時間と共に増えていくことだろう。
 しかし、こうした葬儀観の変化は新しいものではない。長い歴史においてむしろ主流だったものである。

 地域共同体が主流になって葬式を行っていた時代、家族や親戚に加えて地域の仲間といった、死者を中心にした生前の関係者によって葬式は営まれてきた。会葬者がやたら多くなるのは、特別な社会的影響力をもった人の場合に限られていた。
 戦後の高度経済成長期に、地域社会の衰退と共に、葬式の社会儀礼色が強まったのであり、むしろ、高度経済成長期以前の葬儀観への後戻り現象とさえいえる。
 会葬者の数の減少の背景には、成長神話に彩られた「戦後の終焉」があるのだろう。

 さらに違う現象も見られる。
 東京や大阪の業者に聞くと、全体の1割近くを、いわゆる火葬だけの葬式が占めるようになったという。以前にも書いたが、死体処理だけが残った葬式である。これは少し異なる。
 ある業者が、近親者だけでこじんまりと行う、いわゆる「家族葬」を対象とした価格設定をしたところ、問い合わせのほとんどが、家族葬ならぬ死体処理としての葬式を希望する消費者からのものとなり、愕然としたという話を聞いた。

「近親者だけで親密に弔いたい」ということと低価格志向は必ずしもイコールではない。こうした人々は高額な葬式を望むわけではないということは確かなことである。だが、合理的な価格を望むことと、単に安い葬式を望むこととは異なる。
 事実、「家族葬」を希望する人は、家族を弔うのに自分たちが納得するものについてはお金を払う。納得しないものについては全くお金を支払おうとしない。そういう意味ではわかりやすいのである。

 但し、従来の葬式の告別式用の装飾である祭壇に対してあまり価値を認めないものだから、いわゆる祭壇価格は下落する傾向にある。
 もっともこのことにしても、今日のいわゆる「祭壇」が、高度経済成長期を背景に社会儀礼色が強まった葬式の産物であったのだから、葬儀観が異なるだけの話である。葬儀観が異なれば、当然用いられる葬具も異なる。
「家族葬」支持者は、祭壇の装飾よりも、遺体への関心が強くなる傾向にあるようだ。それは死者との別れということに主眼が置かれるからである。

 今、問われているのは、葬式の意味であり、葬式の価値を新たな時代変化の中で創造することだろう。不況だけでなく、葬祭市場は大きな課題を抱えこんでしまっている。

 従来行われてきた葬儀受注の方法を見てみると、それは価格偏重型であったように思える。
 遺影写真の選定、日程、場所などを決めた後、「どんなご葬儀にしましょうか?」と遺族にたずねて祭壇の見本帳を広げる。祭壇セットと葬儀価格は組になっている。30万円、50万円、70万円…といったセットの中から選択される仕組み。それが終わると引き物や料理の選定、準備する数量の予測を行い、見積書が提出される。見積書がいわば契約書である。

 だが、葬儀ということを考えたときに、これでは何か肝心なものが抜けているように思える。
 それは遺族の死者に対する想いであり、遺族が死者をどう弔いたいかという考え方である。
 葬儀とは死者への弔いであるから、当然にも主体は遺族である。遺族が行う弔いをサポートするために、葬祭業者はさまざまな物品や役務を提供するのである。
 遺族の弔いに対する想いを欠いた価格偏重の葬儀受注というのは、目的やコンセプトを軽視したものであることは確かであろう。

 遺族にしても、目的やコンセプトを明確にしないのは、どこかに業者の提供する葬儀という既製品の商品があって、ここから価格によって選択するという思い込みがあるのだろう。
 現在の苦境は、従来方式の方式の破綻でもあるだろう。それゆえ、遺族の想い中心という原点に立ち戻った再構築こそ葬祭事業者には求められているように思われる。

現代葬儀考62号(2001.3) 碑文谷創

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