葬祭サービスを問う

序 あってはいけないサービス

■寺からのリベート脱税事件

 新聞が「お布施還流 所得隠し 都内の葬儀会社、7年間で8億円」と報じた。その記事を企業名を伏せて転載する。

 葬儀会社T(東京都)が東京国税局の税務調査を受け、05年6月期までの7年間に約8億円の所得隠しを指摘されたことがわかった。僧侶に読経の仕事を紹介し、お布施の一部をリベートとして受け取りながら申告していなかった。追徴税額は重加算税を含め約3億円に上るとみられる。
 関係者によると、同社が葬儀の読経の仕事を僧侶に紹介し、僧侶らはお布施の一部を同社関連法人に渡していた。関連法人はその一部を受け取り、残りを僧侶らが属する宗派への上納金名目で、東京都内などの同社関連の3宗教法人に移していた。
 宗教法人は税制上の優遇措置を受ける公益法人で、お布施は非課税。このため同社関連の宗教法人は、上納金を所得として計上していなかった。これらの宗教法人は休眠状態だった際、同社が買収しており、東京国税局は宗教法人を使った課税逃れと判断し、重加算税の対象とした。
 同社は「担当者がいないので詳細が分からず、コメントできない」と話している。(3月6日毎日新聞)

 私はこの事件を、国税局とは異なり、次の2点で問題であると考える。
(1)葬祭事業者が宗教法人を所有すること。
(2)お布施からリベートをとること。
 国税は、あくまでリベートの所得隠しを問題にしているが、私は元凶は(1)と(2)であると考える。

■守られるべき葬宗分離

「葬祭サービスはトータルサービス」と言われて久しいが、葬祭サービスと宗教の間は不可侵でなければならないのではなかろうか。葬霊分離(葬祭事業と霊柩運送事業の分離)ならぬ「葬宗分離」でなければならないだろう。葬儀に関わる全てをビジネスの観点で見てしまうとこういう事態が発生する。葬祭業の近代化の名のもとで、葬祭業のあるべき姿を見失ってしまった極端な事例であるとして私は理解した。

 宗教法人を手にした事業者はT社だけではない。互助会の大手にも見られる。
 ある事業者は「本堂も再建してやったし、葬儀も紹介してやる。(買収された)寺の住職も喜んでいる」と誇らしげに語っていた。斎場の最上階に「○○寺別院」という看板が掲げられているのを見たこともある。

 宗教をビジネスの対象とすることは葬祭サービスの逸脱であると思う(単純に利益追求するなら触手が働くであろうが)。
 宗教の本質は信仰である。この原則を忘れ境界線を踏み越えたとき、葬祭サービス自体にも大きな歪みが生じるように思う。
 残念なことに、都市部では寺院へのお布施からのリベート問題がなくなっていない。東京だけではなく、関西でも報じられたことがある。

 大都市部では、いわゆる宗教的浮動層が多く、檀那寺と檀家という関係を結んでいない人々が多い。そうした人が遺族となったときに、葬儀を依頼すべき檀那寺がないものだから、葬祭事業者に僧侶の斡旋を依頼するケースがある。そういうケースが多いことから、葬祭事業者は予め僧侶のネットワークを作っておく。僧侶にもいろいろいるのが現実であるから、遺族の身になって葬儀を勤めてくれる僧侶を予め選んでおくことは必要であろう。だが、それはあくまで遺族のためであって、葬祭事業者のためではない。

 しかし、このネットワークを作るにあたって、葬祭事業者にとって都合のいい選別が行われている現実が一部にある。
 葬祭事業者の言うことに聞き従う僧侶であるか、あるいは、紹介手数料(リベート)を払う僧侶であるか。
 一部に見られる、こうした宗教者を支配下におくような葬祭事業者の姿勢は改善を要するだろう。

 葬祭事業者と宗教者の関係は、遺族(あるいは故人)のため、という共通目標はあるが、両者の関係は緊張関係にあるべきである。どちらが上あるいは下ではない。葬儀の演出のために宗教儀礼を損なうことがあってはならない。

■「布施」への誤解

 また布施は、僧侶の説き、なす法施(ほっせ)に対して遺族が応える財施という関係にあるもので、宗教サービスの対価ではないのである。布施という領域においては葬祭事業者が間に入る余地がない。
 いい僧侶を紹介するのは、遺族の身になるサービスであるが、それをビジネスの領域にしてはならないだろう。これは葬祭事業者の問題だけではなく、それに甘んじる、あるいは自ら求める宗教者が現にいるという問題でもある。

 宗教のもつ独自性に対する理解を欠いた、宗教もまたビジネスにしようとする葬祭事業者と、それを受け入れる宗教者は弾劾されるべきである。  最近、この業界に進出した「革命児」の中にも、この葬宗分離をわきまえていない人も見られる。
「まだまだ不透明なお布施にガマンしますか?」と消費者に呼びかけ、「H社は業界初の明瞭なお布施価格です」とホームページに書いている。

 お布施は料金ではない。たとえそう誤解している宗教者が多数いようが、けっしてそうではない。それぞれの遺族がそれぞれの生活に合わせて、精一杯のお布施をすることが大切なのではないか。百万円なら高く、10万円なら安いわけではないだろう。

 しかも俗名15万円、信士・信女20万円、居士・大姉35万円、院号50万円と表示。いかにも「安いだろう」と謳っている。これは問題となっている「戒名料」という構図をそのまま踏襲したものである。戒名の位階によって料金化されている。これでは「お布施」ではなく「料金」である。全日本仏教会も強く否定した「戒名料」「院号料」である。
「消費者のため」という名の大きな誤解である。ここにはビジネスだけがあって、信仰への配慮の欠片(かけら)も見られない。これのどこが「新しい」というのか。

 葬祭事業者は遺族のよき相談相手にはなっても、宗教に手を突っ込むべきではないように思う。また、宗教者も葬祭事業者に手を突っ込まれるような情けない状態から脱しなければならないと思う。

■「宗教」をどう考えるか

 葬祭サービスを考えるとき、宗教に対する姿勢を見ると、その事業者の質が見えてくるものである。いくら「いいサービス」「適正な価格」をうたおうと、宗教に対する姿勢がいい加減なところは、ほんとうに遺族のことを考えたサービスになっていない。遺族のことを表面的ではなく真に考えたならば、こんないい加減なことはできないように思う。

 宗教の大切さを理解するということは、死がもつ意味の大きさを正当に理解することにつながるからだ。ひいては遺族の悲しみを理解することになるからだ。
昔の葬祭業者が「葬儀は金じゃない、心だよ」としみじみ語っていた。その心根を忘れてはならないように思う。

葬祭サービスの「近代化」は必要なことである。それは生活者である遺族の状況が変化したからである。また、因習からの脱却も大切なことである。しかし誤った「近代化」は葬祭事業者の品性を失わせる。
「トータルサービス」という名のもとに、葬祭事業者が宗教の領域まで進出したり、「明瞭会計」の名のもとに戒名ランクを作ったりすることは、葬祭サービスとして明らかな逸脱だろう。

 一部のマスコミが「葬儀の暗部を暴く」というような企画を作ることがある。それは死をタブーとする意識が、依然としてあることの表れである。そこには「関係者」なる人物が登場し、いかにも全部の事業者が実際には悪いことをしているような解説をする。あるいは自分たちだけは違うと宣伝する新規事業者がいる。たくさんの葬祭事業者を知っている者としては苦々しく思っている。

それが真実ではけっしてない。多くの葬祭事業者は善良で、その割合は他の事業と比べてけっして低くはない。
だが、今回の報道で明らかになったように、宗教との境界線を大切にしない、倫理を踏み外した一部事業者がいることが問題で、これが全体のイメージ悪化を招くものとなっている。

 寺と葬祭事業者の関係は腐れ縁ではない。よきパートナーとして緊張ある関係を築いていくべきなのである。そうでないと葬儀の宗教離れ、葬儀の無意味化がいっそう進行するのではないか。それによって結果として不幸なのは、弔いを失くした遺族なのであることを銘記しなければならない。

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