葬祭サービスを問う

2.葬祭サービスの現在とその問題点

■葬祭サービスは接客サービスか?

「葬祭サービス」が唱えられることで各社が取り入れたのが接客サービスの訓練である。
 これ自体はまちがっていない。かつての葬祭業においては遺族や会葬者に対して「お客」という認識が乏しく、その接客態度は拙劣な場合が少なくなかったからだ。
 祭壇とか葬具の提供が主任務だったから、という理解もあるが、基本的な従業員教育が不足していたことは否めない。

 挨拶ができる、お辞儀がきちんとできる、きれいな歩き方、所作ができる、というのは生きた人間を相手にするサービス業の基本である。
 きちんとした接客態度を身につけることは当然であるし、それがまだできていない企業も残念ながら少なくない。

 実際、葬祭事業者を訪問したり、電話をかけたりすると、そこの従業員教育のレベルがよくわかる。視線の向け方、近寄る動作、言葉遣いなどから、受け取る側には快、不快といった感情がはっきり出る。そういう意味では接遇のよしあしは怖いものである。対人関係の最初の印象を決めかねない。

 じっくり話をしたらいい人だった、では遅いのである。接客がきちんとできない人は、最初にお客の前に壁を作っているようなものである。事実、会ってよく話してみればいい人が多い。接遇の基本が身についていない人は損するのだ。

 だから接客サービス、接遇技術を訓練し、身につけることは確かに基本中の基本である。
 では葬祭サービス=接客サービスか、といったらそうではない。そうではない、と強調するのは、接遇は見事なのだが、そのサービスの内容が貧困であるケースがまた少なくないからである。

■葬祭コーディネータ説

 1980年代より葬儀社の葬儀における位置付けが変化してきた。
 どう変化したかというと、あたかも黒子が主役になったかのように映るようになった。
 葬儀が地域共同体主宰のものから個人化が進み、葬儀社の働きなしに葬儀が動かなくなったのである。

 葬儀に対して、かつては親族が、あるいは寺が、あるいは地域がもっていたイニシアチブが、葬儀社の側へ移ってきたのである。
 そこで90年代から言われ始めたのが葬儀社コーディネータ説である。
 葬儀社は、遺族、親戚、地域、寺のそれぞれの利害を調整し、全体をうまくまとめていくべき存在とならなければならない、という主張である。

 これも理のある説である。葬式とは遺族、親戚、地域、会社、寺といった各方面の利害や意向がぶつかる場になりかねない。それぞれの中で力の優劣がはっきりしていればいいのだが、力が拮抗していると、なかなかまとまらない。そこで各方面にうまく根回しをして、一定の方向づけを行う役目を葬儀社は期待されることになる。
 地域の団結があったり、寺の権威がはっきりと認識されていた時代にはなかった役割である。

 いまでも遺族の意向と地域の意向が対立し、どうすればいいのか悩む葬祭従事者の話はよく耳にする。こういう調整を期待されるというのは、期待される側にとっては悩ましい。あちらを立てればこちらが立たず、しかも葬式が多様化してきているからなおさら難しい。
 私も「こういう場合にはどうしたらいいんでしょうね」と相談を受けるケースがあるが、どんな場合にも通じる正解というのが出せない場合が少なくない。

 こうした悩ましい役割を押し付けられるようになったのは、時代の変化であり、寺、地域、親戚、そして遺族を囲む環境の変化のためである。
 問題はどう方向づけるか、である。よく戒めなければならないのは、葬儀社に都合のいいようにと引っ張らないことである。自社の都合のいいようにリードすることで出てくるのは「葬儀社主導ではないか」という反発である。

 各地の仏教会や宗派の研修会に出て声を聞くのは、「葬儀社が横暴である」という非難の声である。「勝手にスケジュールを決める」「本尊をないがしろにする」「充分な読経時間がない」等、怨嗟(えんさ)と称してもいいほどの声である。もちろん葬儀社側にも言い分はある。「寺は頑固だ」「寺は遺族のことを考えていない」「寺としての役割を放棄している」等、寺に対する葬儀社の声も激しいものがある。

 遺族からも「選択肢をきちんと提示してくれなかった」「葬儀社の思うがままに進められた」等、必ずしも全体ではなく、あくまで一部の声であるが、聞かれることがある。無論、感謝の言葉も聞かれる。

 いま、葬儀社が「調整」を期待されるようになっているのは時代、環境の変化によるものであるが、充分な調整の労をとらずに、頼られていることを過信して、「葬儀社主導」にならないよう自戒する必要があるように思う。
「葬祭コーディネータ」説の危うさは、葬儀社が自己過信に陥る弊害もあるということである。

■古きを見直す

 葬式の場所はきれいな斎場へと舞台を移し、葬儀の外観も変貌している。一部には野暮ったさがまだ残っているが、全体としては洗練されてきている。
 だが、その中で失われがちなものもあるようだ。

 その一つは、「人情味」と表現しておこう。ビジネスライクになり、故人や遺族への思い入れが少なくなっている部分がありはしないか。
 お辞儀等の所作は洗練され、敬語を用いて(ときに過剰に)応接し、とスマートになってきてはいるのだが、肝心の遺体の尊厳に対するこだわり、遺族に共感しての思い入れという点で不足を心配する声がある。

 ある人は「お客のニーズとか言葉は立派だが、心が感じられない」と表現している。
 葬祭サービスもビジネスであることは否定できない。しかし「マーケット」という眼だけで見て、個々の死者、個々の遺族へのこだわりを失うことになれば、サービスの原点を失うようなものである。

 若い葬祭従事者あるいは専門学校で学ぶ学生を見ると、鋭い感性、人のいのちへの瑞々しい共感が溢れている人が少なくない。
 だが中堅という段階の人になると分かれてくる。死者や遺族へのこだわりを深くしている人と専らビジネス・マーケットとしか見ていない人とに。

 ベテランと言われる葬祭マンに会って「いいな」と思う人は、人情味が豊かな人である。人へのこだわりを深くしている人である。その人たちが異口同音に言う言葉は「葬儀はマニュアルじゃできないからね」である。
この言葉を「古い」という言葉で片付けられない。死者(この人たちは「仏様」と表現する)と遺族への「心」を失くしたら基本的に失格である。たとえ装飾がきれいで、運営の手際がよくてもである。
 もう一つは、葬具へのこだわりである。
 かつての標語で言えば「葬具賃貸業から葬祭サービス業へ」であるが、きちんとした葬式を施行するには、きちんとした葬具を取り揃え、正しく配置することは、葬儀をサービスとして提供する以上、大切さに変わりはない。

 60年代に、滅茶苦茶な、見た目重視の祭壇やら、理論的根拠がない葬具が出現したが、いままた見た目のデザインだけ重視の、理解があやふやな葬具の陳列が眼につく。葬式を出すことへの真剣さが欠ける場面を眼にすることも少なくない。
 時代に沿うことは大切である。しかし、歴史や伝統も深く理解したうえでの話でなければならないだろう。

 かつての人は葬具を「作った」時代を経験している。いまでも少なくはなったが作っている人がいる。葬具も作るたびに意味を問い返していたのだろう。いまは「買う」時代となった。地域にもその葬具の謂れを知る人は少なくなった。だが、葬具へのこだわりを失っていいわけではないだろう。

 新しさというのは歴史や伝統を正しく踏まえたところに咲くのではないか。そうでなければあだ花である。葬祭サービスは単なるイベント業とは異なる。そこには文化がある。

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