犯罪、悪、罪って何だ?

先日、親鸞仏教センターの講演会へ行き、改めて人間の負っている罪、悪について考える機会をもった。
人間のあるがままの姿、それは過ちも犯し、感情的にもなり、差別や偏見をもち、目先の利益を求め、怠惰、卑怯、他人を軽視し、一時的な欲求から自由になれず、妬み、謗り、裏切り、その他もろもろけっして倫理的な意味では善ではありえない。

修行や教育によってもその内面を改めることは不可能だと言っていい。
法における罪とは、そうした内面の罪ではなく、社会化された法に規定された罪に過ぎない。
また、法的な意味で罪とされることからも、慎重に避けようとは努めるものの、誰にも逸脱することだってあり得る、ということを知っておくべきなのだ。

マスコミは法的な罪を、あたかもその人間特有の欠陥がもたらしたもののように報道し、法的罪の概念を超えて人間存在そのものの罪のように語るが、総務大臣の職にあるものが、人そのものを口汚く断罪するが、それは醜い。

スマップのKが酒に酔って公園で全裸になって騒いだ、というが、近所の人間がうるさい、迷惑だと感じた、というせいぜいが迷惑をかけたというだけのレベルのことである。
公園で全裸になったといっても見ている人間がいないのだから、それによって不快を感じる他者がいないのだから、それを犯罪とするのは根拠がない。
一般人であれば一晩留置所に入れ、説諭して帰宅させるだけのこと、有名人だからといって違う対応をするのは、法の下での不平等になりはしないか。

薬物中毒の疑いをもったのだろうが、家宅捜索という形を取らなくても、本人が了承すれば可能なことだ。

酔っ払い正体をなくすなどということは、他者には迷惑であるが、酒呑みであれば何度か経験したこと。私は導眠剤を服用するから、最後は無意識状態になり、倒れたり、罵詈雑言を吐くなど日常のことだ。

Kが深酔いして自分を失う、というのは別に異常行動ではなく、酔っ払いにあり得る行動である。だから通常警察は保護し、迷惑行動をそれ以上させないようにする。いちいちを「犯罪」化させるのは適切とは言えないだろう。

「有名人だから自覚が必要」「こんなことをする人だとは思わなかった」「有名人だから何やってもいいわけではない」
―これこそが戯言なのだ。

こんなレベルで犯罪者が作られるというのは明らかに異常である。
また、このことを大喜びで報道するスポーツ紙、ワイドショーの心性のほうが、酒に呑まれたKよりも、よほど人間性が卑しい。

ここまで書きながら、書き始めから論理は少しずつヅレているのはわかるのだが、ついでにヅレついでで言うと、「裁判員制度」はおかしい。

裁判所で裁かれるべき犯罪は「法的な意味での犯罪」である。人間を裁く場ではない。それを明確にしないといけない。
その意味では民間人の感情で裁かれるべきではなく、法的訓練を受けた者が行うべき行為なのだ。
民間人の裁判参加よりも、法律の専門家である判事、検事、弁護士の人事交流が盛んになるほうがいい。

今回のKの件は、テレビで芸人連中がその失敗を大笑いし、Kは安眠や深夜の仕事をしている人に迷惑をかけたと、1軒ずつ訪問し、菓子の包み持参で謝罪してまわれば済むことである。
CMの停止や仕事の自粛など不要である。

人間とその社会の醜悪さというのは、自分も弱く、失敗もする人間だということを棚に上げて、さも自分は立派であるかのようにして裁き、中傷してしまうということである。
醜悪なのはKではなく、Kを好き放題に引き回す警察の有名人への嫉妬と嘲笑しているマスコミ、テレビの前にいて興味津津の人たちだ。

私も品性が卑しいので、アメブロで見て「コリャなんだ?」と興味をもってネット上のニュースを調べたが、おかしいのはどっち?という思いがした。この卑しい私の意見、けっこういい線をいっているように思う。

さて冒頭に帰る。
人間は修行、信心、信仰によって他と差別され特権階級のように選ばれ、罪人であることから救われるのではないだろう。
宗教により人間が一段高みに上ることはあり得ないのだ。価値が上がるわけではない。あるがままでしかない。
少なくとも私はあるがままにこだわるつもりである。
だから宗教者に対して、「宗教者のくせして」というような非難はしない。それは意味がないからだ。
それは「聖職」と言われる「教師」等に対しても言えることで、そもそも人間には「聖職」などというのはないのだ。
役目だけがあるのだ。

教師や上司の不当なパワハラ、セクハラ等の不当行為は現に被害者がいるのだから厳しく追及してしかるべきだ。
いま外に問題が出るようになったが、前は職場内で隠蔽、泣き寝入りされていた風土が確かにあった。
また職業差別、偏見はまだまだ社会に根強くある。この根絶のために粘り強く取り組む必要がある。
社会的偏見をもつ人に社会的に「いい人」と思われる人が多いように感じるのは私の偏見がなすゆえか?

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「犯罪、悪、罪って何だ?」への1件のフィードバック

  1. >そもそも人間には「聖職」などというのはないのだ。
    >役目だけがあるのだ。
    そうだとすれば、その役目を自覚し、その役目を全うするよう努力する、それを促すものが宗教であるような気がします。
    ともすれば人間は自分に負わされた役目を忘れ、「一時的な欲求」に走りがちな「我」の強い存在です。
    それが、「罪」の根源なのかもしれないと思います。

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