サナトロジー(デス・スタディ)の研究の端緒となった一つが、朝鮮戦争やベトナム戦争の帰還兵の精神病理の研究であった。
米軍の帰還兵だけの問題だけではない。自衛隊員の自死率、PKO派遣隊員の自死率の高さは異状である。
これは昔から言われてきたことだが、中外日報の社説子は読んでもいなかったのだろう。知らなかったのだろう。
「人を殺すのは刃だけではない」
他者や環境からくる凄まじいまでのストレスは人をも殺すのだ。
そこで死ぬのも生き残るのも、当事者の意思力や健康、助け手の存在なんかではない。
たまたまなのである。
人が戦場に行って死ぬのも生き残るのも自分でさえ充分には決定できないのと類比できる。
しかも戦場の場合、生き残って帰国しても安泰ではない。
多くの元兵士の精神を蝕み、自死に至らせるケースも少なくない。
いじめは子どもの世界だけではなく、およそ人間が集まるところに発生する。
これも病理である。
いじめられ自死する者だけではなくいじめるのも病理である。
人間はそもそもそんなに強くできていない。
自然災害にも事故にも、病気にも、人間関係にも、与えられた環境にも、そんなにふてぶてしくは生きていられない。
それに宗教が打ち克つこともない。
自然災害、事故、病気による死と人間関係、社会、環境、精神病理がもたらす死を区別することはない。
死はどんなものでも苛烈なのだ。
そして常に精神的、距離的に遠いものにとっては何事でもない酷薄なものである。
自死について精神病理の研究者は、「その7~8割は自分で死を選択していない」と言う。
いくら研究が進んでも個々の自死の決定的分析は不可能であるから数値はあげないが、多くの場合、自ら死を自己決定していないし、自己決定しているように見えたり、書き残されたとしてもそこにどれだけの自己決定能力があったか疑わしい。
とするならば「自殺」ほど無責任な価値観からくる言葉ではないか。
自死は自分を殺めたのではなく、他の要因(個々によって異なる)によって「殺された」事例が多くあるのではないか。
それを他人が直接手を下していないという理由だけで「自殺」というのは安易すぎないか。
そして中外日報の社説子のように高見から論断するバカまで現れる始末だ。
「自死」への偏見はどこかに自死者への犯罪人に見立てるところから出ている。
死というのは固有のもので、死者といえども尊厳をおかされていいわけがない。
「自殺美化」よりも問題なのは、中外日報社説子のような安易な生命観がはびこっていることである。
死者に同情なんて不要である。同情は関係ない他者が一瞬「かわいそう」と言うだけの話である。
人間の弱さ、わからなさ、固有の事情に知らないふりをしているから「自死と言い換える」のは「自殺という行為を美化する危険性をはらむ」などと臆面もなく言えるのだ。
こんな安直な生命観が宗教的価値観とするならば、それをもたらす宗教もなんとも安直だとしか言いようがない。
筆者は道元の言を引用しているが、引用された道元は嗤っていることだろう。
こうした社説を許した中外日報は、自死者の尊厳を貶めることだとして、すぐさまの自己批判をすべきである。
わからないことはわかったような顔をして語ることではなく、しばし沈黙することである。