子連れ無理心中―個から見た死と葬送(16)

子連れ無理心中

こういうニュースがいちばん怖い。
しかも記事はいつも中途半端だ。
そこに至った経緯を想像しようとしても何も見えてこない。


でもそのニュース記事を書いた当の記者にもそれ以上は書けなかったのだろう。
警察が発表した以上の情報はないのだろう。

おそらくそれを探ったならば、1日はもとより数日でも済まないだろう。
半年あってもその真実はわからないだろう。
また、仮にわかったとしても、それを明らかにすることは死者に対してどうなのだろう。
多くの者が傷つくだろう。
しかし、そこにはもしかしたら、第三者としてではなく、明らかにすべきものがあるかもしれない。
記者は自問するだろう。

見出しが扇情的であるのは、
「自分が書かなくとも他社は書く。ならば書くしかない」
と言い訳のようにも感じる。

事柄が痛切なのに、報じるほうは中途半端な姿勢で日常感覚の意識を出ていないかのように見える。

でも新聞を広げた者には、その見出し以上のものが入ってきて、しばし呆然とする。

何故か知る由もないし、知って何かができるわけではない。
いや、何かをしたらものすごい冒涜になるかもしれない。


ときどき

「子どもが病弱なことをこぼしていた」
「仲良く公園で遊んでいた」
などの説明が記事に付されることがあるが、わからないことは同じだ。

いっそ記事にしないでくれと呻く。
だが、その次には別のページをくっている自分がいる。

そんな日は一日憂鬱である。

しかし、それが家族であったら、憂鬱だけで済むはずがない。

何か自分の血が酷く冷たい感じがした。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/