長過ぎる不在―個から見た死と葬送(18)

基本としてここに描いたものはフィクションである。
私の周辺で生じたものが多く含まれているが、当事者の心象に投影して描いている。

長過ぎる不在

先日、後輩の息子が死亡し、葬儀に出かけた。
職場で倒れ、入院。
10日後に息を引き取ったという。

遺族の顔を見ると、15年前の私とそっくり。
目はときおり上げるが誰も見ていない。
宙を彷徨っている。

私は15年経たが、息子の不在から卒業できていない。


5年後に部屋の模様替えをしてみたが、かえって居心地が悪くなった。

息子の帽子を2つ取り出して玄関にかけてみた。
ときおり触ってみるのだが、心は冷え冷えとするばかりだ。


でも帽子はもう動かせない。


運動靴も1足だけ玄関に置いたままだ。
それは新品で、ついに足を通されなかったままだ。


娘はもうすっかり成人したが、毎朝出勤前に
「お兄ちゃん、行ってきます」
と仏壇にチーンと鉦を鳴らして出かける。


何か辛いことがあると、一人仏壇に向かって小声で言いつけている。

娘の心には兄は居ついたようだ。

私の心にはまだ居つかない。

でも卒業できないのは私だけではない。
息子の祖母である義母がそうだ。

「私が歳をとっても生きているのはお兄ちゃんに悪い気がする。代わってあげたかった」
と悔やむ。

わが家では息子の死以来、誕生日は禁句となっている。

家族が揃っているときは会話も普通に飛び交うのだが、夜はいけない。
私たち夫婦だけになると、会話は時おり続かなくなる。
気がつくと二人で呆としている。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/