書くということ

きょうは日曜日
きょうから始まる1週間は月曜から金曜日まで
何かしら予定が入っています。
だが、それが終われば、時間がつくれます。
持ち越しの原稿があるので、きょうはそれを仕上げます。

原稿を書く、というのは、年々難しくなっています。

多産家でもないし、毎日着実に
というタイプでもありません。

書くテーマによっても当然変わってきますが
書くまでのエネルギーを充満させる必要があり
書くときには一気に、とならないとできないタイプです。

その「書く」という動作に入るまで時間がかかるようになってきました。

もちろん遅筆なのは、いま始まったわけではありませんが。

また、「書く」には時があるように思います。
過去の原稿を読んで、この時しか書けなかったと思うことがあります。
それは若い時に書いた原稿にも思います。

あの時、こう書けばよかった、ではなく
いまの自分には、いまは書けないな、と思うことがしばしばです。

これからは年齢を重ねただけのものを書いていけたらと思っています。

十代の頃から一人称の死、つまり自分の死に関心が高く
いま、また自分の死を想うことが多くなってきました。

しかし、これについて書ける状態にまでは遠いのですが
このことを意識して書いていくと思います。

書くという仕事は自分を切り刻むようなところがあり
また、読む人に何かしらの感じを与えるようなものでありたい
と願っているので私には難しいです。
これは、なかなか書けない、ナマケモノの言い訳でもあります。

でも、こうした文章だけを書いているわけではなく
仕事としては「教育的」な原稿が多く
しかし、それはそれで社会的責任を強く感じています。
滅多なことは書けないぞ
という感じです。
また、そうした原稿を書いて、読んでいただくのも、いまの私の立場と心得ています。
学ばせてもらったわけですから還元する役割もあるわけで
後の人がそれを批判的に乗り越えていただければよいわけです。

他の媒体に書くことも多いですが
やはり私の主戦場は自分の雑誌です。
批判精神が鈍ってはジャーナリストとしてやっていけませんが
批判することだけで終えたくはありません。
ですから批判と同時に大切にしているのは期待です。
宗教者にも葬祭業者にも市民運動にも、その未来に熱い期待をもっています。

そのためにも駄目なものには「駄目」、とはっきり言っておかねばと思います。
時代はズルズルと安易な方向に動こうとしているように思います。
立ち止まって考える、そのきっかけにでもなれば書くことで係わる者としてはうれしいですし、たとえそうならなくても言うべきことは言おうと思います。

若い時代のような迸る熱気と研いだ斧、無謀さは正直ありません。
鈍器であるかもしれませんし、スピードもないかもしれません。
持続した集中力もありません。

ないないずくしですが、自分の感性を人々の奥底にある想いと関係させたいという想いで、遅筆ながら、少しずつ書いていきたいなと思います。

ここまで書いて、読み直すと、これはきれいごとですね。というより思い込みでしょうか。現実はというと、七転八倒、闇夜で穴を一人掘っていてどこに進んでいるのか、前に行っているか、後ろに行っているかもわからない状態です。自らの現実を省みると暗澹とします。だから敢えて「覚悟」を書いてみたのかもしれません。妄言とお笑いください。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「書くということ」への1件のフィードバック

  1. 碑文谷先生は雲の上のお方のようなイメージがありますので、率直な気持ちを拝見すると・・・失礼なんですが・・・ほっとします。 いまの自分に出来る事を、無理をしないで、でも少しずつでも行動していく事が大切なのかなと思いました。

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