雨も上がり、日が差しています。
私は「雨嫌い」ですから、晴れると気分も高揚します。
反対に雨であれば、この世もおしまい的な厭世感に囚われてしまいがちです。特に冬の雨は嫌いです。
さて「教育問題」が世を騒がせていますが、
私は学校が問題の根幹であるとは基本的に思わないのです。
勉強するかどうかは子ども自身の問題であるし、
子どもがいじめ等の問題行動を起こすのは基本的に家庭の教育の問題だと思います。
私の子ども時代には、それは大学に入っても
勉強とは自分がするかしないかの問題だと思っていました。
けっして優等生ではなかったのですが、勉強ができないのは学校のせいでも親のせいでもないと思っていました。
自分でものを考える訓練は小学校の高学年くらいから受けたように記憶していますが、自分なりに考えるようになったのは高校1年以降のことです。
いまはどうかわかりませんが、当時は少しませた感じでした。
すべき勉強としない勉強は、それが正しかったかどうかは別にして、自分で選択してきたように思います。
大学では教授に教わるなどは恥ずかしいことだと思っていました。
その感覚はいまでもあります。
いまもたまに教える機会がありますが、知識を教えることについてはそれほど情熱的ではありません。勉強する気があったら自分の本を読んでくれればいい、という気分があるからです。
それよりもものを見る眼、感じ方の多様性について話し、何か感じてくれたらいい、と思っています。
学生が主体で、その進む方向性に何かサジェスチョンができればいい、というスタンスです。
子どもの問題ですが、親になるというのは、子どもがある程度自立できる年齢、高校生になる前までくらいまでは、何がなんでも子どもを守る、という覚悟をもち、子どもにもそれを伝えておくことでしょう。
小学高学年から中学生というのは自我が明瞭になる時期ですから、親は子どもをはっきりと一人前として扱う訓練をすべきでしょう。
私が父に感謝しているのは、高校生になってからは私に指示することなく、私の選択に全て任せてくれたことです。一人前に扱ってくれたことです。
危なっかしいとは思ったでしょう。でも、そうしてくれたことが私にとってはとてもうれしいものでした。
子どもを守るのも、そして一人前として突き放すのも親の責任のように思います。
そこいらの半端さがいまの教育問題に表れているような感じがします。
もちろんのこと私の育った戦後の時代と、いまの都市化情報社会では相当の環境の差があります。
その社会の相違は教育問題にも無縁ではありません。
だが家族の情が基本という点では変わりがないように思うのです。
家族の問題を社会(学校)に全て帰している、それを親自身もしているように見えるのです。
家族の問題は家族でしか解決できないし、社会(学校)で子どもが受けたこと、したことは親が責任をとるのがあたりまえです。教師に子どもを守ってほしい、育ててほしいとは考えてはいけないのです。
そして子どもが成長したら一人前に扱うことです。過保護は子どものためにもなりませんし、それ以上は親だって子どもに責任を負えないのです。成人した子どもは自分であらゆる責任を負わないとしょうがないのです。
正直、いまの子どものほうが自分の子ども時代と比べ、生きにくいなと思います。情報もその手段も過多ですから。しかし、問題を全て社会(学校)に負わせることはできないし、解決になりません。
子どもをまた情報無害の世界で生きさせることは不可能です。有害と言われる情報の中で揉まれていくものです。