「明日の記憶」

きょうも晴れていますね。
きょうは昼から東北新幹線で福島・郡山へ行ってきます。
15時から約2時間、質疑も入れて講演です。
今年最後の講演になります。
帰京は明日になります。

昨日レンタルDVDで渡辺謙、樋口可南子主演の「明日の記憶」を観ました。
思い切り自分の心情と被りました。
私も物忘れが激しく、こちらは老人性かな、などとも思い
久しぶりに観ていて涙を堪えることができませんでした。
大滝秀治の存在感の凄さにも圧倒されました。

観終わって手帳を開いたら、きょうの郡山行きに気づき、慌てました。
何せ火曜日だと思い込んでいたものですから。
渡辺が記憶に自信を喪失し、メモとにらめっこしていた姿とダブりました。
急いで講演の話の内容を準備
コピーして昨日のうちにカバンに入れておきました。

さて、話は変わって、

「死」について哲学者と言われる人の書いたものというのは、どうしてこうもつまらないのでしょうか?

これは日本の中堅の哲学者に言えることですが、観念や論理で死を理解しようとしても実感が追いついていないのではないでしょうか。

一応「常識」として理解しようと読むのですが、その退屈さにはイライラを通り越して悪罵してしまいます。

その点、吉本隆明は老いても凄いです。
自分の老いをきちんと自分の感性で記録しています。

吉本は人間の発達と移行期を次のように分けています。
①乳児期
②幼児期
③幼少年期
④前思春期
⑤青春期
⑥成人期
⑦老年期

彼の卓見は、「死」を老年期の後にもってきていないことです。

「死は胎児のときから老齢までのどの時期にも存在する。それは、どの時期にも存在しないこととほぼ同義の可能性だからだ」(『家族のゆくえ』光文社)

彼はそれぞれの段階の前に移行期を設定している。
出生からの乳児期の前に胎内の7~8ヶ月というように。
あるいは前思春期の前の10~14歳を移行期としている。

年齢的には吉本の実感と私の実感とでは若干の差がある。
それはそれで納得できる。

吉本に言わせれば、60~65歳というのは老年期への移行期にある。
まさにいまの私は移行期というわけだ。

吉本は1924年生まれだから82歳である。
その彼が証言するには、老人とは手足と頭の運動性が同時に衰えることではなく、妄想力、想像力はなお発達し続け、運動能力の衰えとの距離を実感することだという。

私の父は脳梗塞で87歳で死ぬ晩年の数年間をベッドの上で生活したが、意識は明瞭であった。言語を発するには不自由であったが、認識は明瞭であった。これを思い出し、納得した。父は認識の明瞭さと身体、言語の不自由さとの間で、どう自分の中で折り合いを付けていたのであろうか。父は従容として死んだ。決して死に抗しなかった。

だが、アルツハイマー、認知症をどう考えるべきか

まだ認知症を痴呆症と言っていた頃である。

私が九州で任意後見制度との関係で触れた時、講演の後一人の男性が寄ってきて
「きょうの話は参考になりました。但し、1点、『痴呆』という言葉は納得できない。私の母はいまそういう状態だが、人間の尊厳ということでは変わりがないし、とても大切な存在だ。それを『痴呆』とは呼びたくない」
と言った。

私は「痴呆症という言葉を用いたが、それは偏見からではない。老化の避けられない現実として引き受けなければいけないということだ」
と説明したが、納得を得られなかった。

私の母もいま90歳を超えて認知症である。身体はしっかりしている。
本人はその現実に慣れたようではある。時々自分の思うようにならないことでヒステリーを起こすことがあるようだが。

認識が明瞭で身体が不自由なことと、認識は不明瞭で身体はそこそこ元気なのと、双方が不自由なことと、どれが本人にとっていいのだろうか。
老化というのは、いずれかの現実が我が物となることを引き受けるということだろう。意識しようがしまいが。

私にはその事実認識はあるが、まだ覚悟がない。

それに比べれば、死はずっと引き受けやすい。あくまで自分にとってであるが。家族となると違うだろうが。

お知らせ

平成19年1月16日(火)13:30~17:00
シンポジウム「葬儀を考える」
パネリスト
大竹幸浩(駿台トラベル&ホテル専門学校学科長)
大村英昭(関西学院大学院教授)
宮本義宣(浄土真宗本願寺派僧侶)
碑文谷創
司会:石上和敬(武蔵野大学専任講師)
会場:東京都西東京市新町 武蔵野大学7号館会議室
主催:武蔵野大学・浄土真宗本願寺派東京教区青年僧侶協議会
申込方法:ファックス042-468-3346 締切:1月10日

広告

投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「「明日の記憶」」への2件のフィードバック

  1. 郡山いかがですか?郡山は私の地元です。
    何もないですが、前知事が弟の会社を使って莫大な資金をもとに改装したので、駅だけ地元の雰囲気とちょっと違っています。
    現在私は身体が不自由な全身性障害者の研究をしており、その方々の生活のサポートの仕事も少ししております。彼らは認識が明瞭で、身体が不自由という状態で、五体満足な身体であるものの何倍もの時間を過ごす運命にあります。身体のしんどさと闘いながら、自分の強い意志の元生活している姿には圧倒されます。
    しかし、自分が老化していくなかで、身体か認識どちらかが不自由になったことは、まだ想像もできません。
    しかし、今わたしにできること。それは少しでもそのような方の気持ちに寄り添い、サポートすることなのかなと思います。
    4月からは高齢者を中心とした現場で働きますので、先生の書かれたグリーフの本等を読んで、しっかり勉強させていただきたいと思います。
    長くなってすみません。お邪魔いたしました。

  2. 郡山行ってきました。積もるほどではありませんでしたが、雪が舞っていました。
    えりぼんさんの生活も日記を見るとハードですね。でも、エネルギーもそこでもらっているのかもしれませんね。身体にくれぐれも気をつけて

コメントは受け付けていません。