年末のご挨拶

きょうは昨日よりは暖かなようです。
昨日はほんとうに寒く、風が冷たく、「冬」という感じでした。
日本海側に雪
深い雪の生活は厳しいです。

ブログで勝手なことを綴っていますが、それで不快な思いをされた方もおられるかと思います。ご寛恕を

私は「戦後世代」
若い頃は「戦争を知らない新世代」と言われましたが、もはや「旧世代」に属するようになったようです。

ものがない時代に親たちの世代から戦争の記憶(ついこの前の)を聞きながら育ち、新しい(当時としては)価値観を振りかざし、親たち世代の変わらない旧価値観と葛藤した思いがあります。
伝統的な価値観を拒否する、そんな中で私は自我を形成したように思います。
ですから中年になり、日本的なものを見直すとき、私は自分の過去を見るというより、新しいものを学習するような感じでした。
これは何も、私たちの世代に共有されるものでは必ずしもなく、私の個人史であると思います。

息子からよく説教されます。
「ロックがわからない、音楽というものに俺は才能がない」
と、私が話すと、
「それは才能の問題ではなく、訓練をしていないからだ」
「オヤジはバスケットはできただろう。それは訓練したからじゃないか」

確かに、その通りです。
運動ではバスケット(当時はまだ篭球という言葉がありました)、そして詩や小説、思想に耽溺したもの、それ以外には殆ど係わることなく、そういう意味では歪(いびつ)な学生生活を過ごしましたから、音楽をはじめ日本の古典やらその他の世界には無知蒙昧であり、それはいまも続いています。

「笑い」についても私の感覚はひどく遅れています。サンマはわかるのですが(大ファンです)、その他の新しい笑いには正直ついていけません。ある種の笑いには拒否感覚を覚えることすらあります。

一人の人間として「限界」だらけと言っていいでしょう。
ま、だからといってどこまで修正可能かわかりませんが。
「旧世代」と言われたことにうろたえ、開き直っている、というところでしょうか。

さて、
年賀状も多少の手抜きをして書き終えました。
昨夜はレンタルDVDで「ダ・ヴィンチ・コード」を観ました。
荒唐無稽とはいえ、キリスト教の歴史には多少馴染んでいますので、観ることに障害はありませんでしたが、あれを素養なしに観るのはたいへんでしょう。いや、新鮮な感覚で観られるのかもしれませんね。キリスト教文化が負の意味でも残っている土壌があの作品を生んだのでしょう。

映画の一つのテーマである「人間イエス」
キリスト教と無縁な方には「人間イエス」というのはまったくの自明でしょうが、キリスト教の世界では形を変えて、長く議論されてきたものです。そしてそれは肯定するにせよ否定するにせよ切実な問題でした。私の学生時代にも「イエスとキリスト」というテーマは大きな問題としてありました。

今年もきょうを入れてあと2日です。
お世話になりました。
妄言もきょうを今年最後とします。

皆様、よいお年を!

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「年末のご挨拶」への1件のフィードバック

  1. 今年もあと1日。年賀状は例年の様に「新しい年になってご挨拶を」と屁理屈を云いながら今年もまだ手付かずです。
    「喪中につき・・・」にちょっと自分で整理できずにいます。結論は「年賀状を出す」です。変かな???

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