一昨日の豪雨
一転、昨日ときょうはいい天気です。
年賀状を書く、と宣言しましたので、遅くなりましたが、これから書こうかと思っています。
私は手書き派、宛名も自分で書きます。でもそろそろパソコンにして毎年書かずに済めば、もっと楽になるのではないか、書くことも億劫にならず、期限にきちんと出せるのではないかと、迷っています。
さて、話は変わって、
私もスピリチュアリティについて書いたり(触れる程度ですが)、スピリチュアルケアを言ったりしてきましたが、ここまでスピリチュアルがブームになると言葉を替える必要性がありそうです。
スピリチュアルケアとはスピリチュアルペインに対応した用語であるのですが、それが皮相な「癒し」とか混同されそうです。どうも世の中の動きはスピリチュアリティもまた風俗に取り込もうかという勢いです。
香山リカ『スピリチュアルにハマる人、ハマらない人』(幻冬社新書)を読むと、暗い気持ちになります。香山さんはバランスのとれた感覚で、この状況を読み取っています。
彼女が、オウムもスピリチュアルも地続き、と看破していますが、既成宗教が日常唱えていることも地続きです。但し、既成宗教には「魅力」がないだけで、普段言っているレベルは似たようなものです。
戦後、地域共同体から切り離された人たちが、新たな共同性を求めて新宗教に結集しましたが、個的に分断された人々はいまスピリチュアルにハマっているのでしょう。
私はオカルト的世界にはアレルギーがあり、江原某がテレビの画面に出るだけでチャンネルを換えてしまう性質(たち)でしたが、ここまで影響力をもつと「違う」と言わざるを得ません。
世に「スピリチュアル」と言われているものは甘言です。この甘言が受け入れられるのは社会的病理です。
私の関心領域で抵触するのは、これがグリーフケアの領域まで侵食しかねない動きです。
グリーフという心の傷を抱えている人には甘言が心地よく聞こえるのでしょう。グリーフは死別という事実を見つめて傷みを傷みとして表出することが必要です。
死の事実をあいまい化することは避けるべきことです。
誤解を恐れずに言えば、死(2人称)に直面することそれがスピリチュアリティであり、その傷みに徹底的に寄り添おうとするのがスピリチュアルケアで、多くの場合は無力なのです。
他者の係わりは無力であることを知って、神に委ねる(私の場合、仏教では仏の本願とか表現されるのでしょうが)、あるいはせいぜいが指し示すことが牧師、神父、僧侶にはできるだけなのです。
大切なのは死者と生活の多くを共有していた人自身によるさまざまな形での(ほんとうにさまざまな)悲しみを悲しみ、傷みを傷むグリーフワークであるのです。遺族(あるいは親しくしていた人)の悲しみに共感し、その作業の場を邪魔しないで用意するのを助けることがグリーフケアの本質です。
グリーフケアに何らかの力があるわけではないのです。
世の「スピリチュアル」なものがグリーフケアに手を出そう、出しているのは火事場泥棒みたいなものです。人の弱みにつけこむ詐欺のようなものです。
「甘言」と真の共感は紙一重です。だからつけこまれるのでしょう。
人間のオーラなんて馬鹿な、と言い切るのは科学を持ち出す必要のないことです。昔からあった「科学と宗教」の不毛な論争を繰り返す必要はありません。実存に係わることです。人間の現実を甘く見てはいけません。
心が傷むということを体験していない人はほとんどいないでしょう。私は欝を体験していますから、それなりに心が病むという状態がどういうものか、その片鱗は経験しています。愚かな宗教者が言う「心を鍛錬すれば心が強くなる」というのは大嘘だと思っています。それは心の傷みに対する感性が麻痺した状態と同じで、そんな修行は無意味だと思っています。
「癒し」なんて簡単に言っちゃいかんのです。簡単に言う「癒し」には欺瞞があると思ったほうがいいのです。
休みをとって大自然に浸るとか運動をするというのは心の健康にとっていいことでしょう。でもせいぜいそんなものです。休養になるとか気分転換になるという類です。
なんか熱くなって、整理されない言葉を書き殴ってしまいました。
きょうで年末年始の休暇に入る人も多いことでしょう。いいお休みになるといいですね。私は例年通り日常通り事務所に出勤します。
「甘言」とは厳しい言い方ですね。
碑文谷さんの文章はずいぶん読ませていただきましたが、
昨今限界を感じます。旧世代の限界なのでしょうか。
いや、むしろ大脳皮質的な限界なのかもしれません。
何か一つでもボディワークをやっていれば
「スピリチュアル」の本質がつかめると思います。
気功、ヨガ、禅、整体…なんでも構わないのでしょうが、
碑文谷さんは身体を通じた直覚知を理解されていない。
だから「スピリチュアル」が理解できないのでしょう。
ご自身が理解できないことを表明なさるのは自由ですが、
それをもって、他の人を説得しようとするのは無意味なことだと思います。
来ましたね。鋭いご意見が。
私の「限界」は元よりあります。いまになってのことではありません。これからもっと理解力が弱まることでしょう、確実に。
身体を動かすことは若い頃にバスケットをやって以来、簡単なストレッチだけです。
但し、私はいまのブームはおかしいと思ったのです。
私は自分の意見を他人に強制するつもりはありませんが、私の意見の表明はあっていいと思っています。ここはその場ですから。
結構、こういう感情的なもの言い方を匿名でされるのには弱いのです。いっそ年寄りの妄言と捨ておいてくださるとありがたいです。
はじめまして。
Sowhat?さんのコメントに不明なところがあったので、
Sowhat?さんにお尋ねするかたちで投稿させていただきます。
まず、碑文谷さんがおっしゃっているスピリチュアルの意味と
Sowhat?さんが理解されているスピリチュアルの意味は一致しているのでしょうか。
私には、語は同じであるものの、意味が少し違っているように感じました。
それから、ボディワークとは「気功、ヨガ、禅、整体…」だけなんですか。
私はその言葉をもう少し広い意味で受けとっていて、
ボディとしての人間が社会的に存在し続けていること自体を、
ボディワークの連続の結果ととらえていいのではないかと思っています。
だから、「身体を通じた直覚知」を語る専売特許は
「気功、ヨガ、禅、整体…」にだけ認められたものではないと理解しています。
違うでしょうか。
もし間違っているとしたら、「気功、ヨガ、禅、整体…」に在って、
「ボディとしての人間が社会的存在として生き続けること」に無いものは何なのか、
ぜひ、ご教示いただきたいです。
ちなみに、一人の人間が社会的に存在し続けることは、
スピリチュアルの現れに他ならないとも思うのですが、
このような理解は間違っているでしょうか。
あと、Sowhat?さんは、碑文谷さんの意見で
「他の人を説得しようとするのは無意味」であると断じられましたが、
仮に無意味であるにしても(私はそうは思いませんが)、
社会的な存在としての人が意見を表明することには
何らかの「意義」があると思うのですが、いかがでしょうか。
ボディとしての碑文谷さんが社会的存在としていらっしゃる中で表明した意見を無意味と断じることは、碑文谷さんというかけがいのないボディに伴う尊厳を損なうことにはならないのでしょうか。
少し気になったので述べさせていただきました。
失礼しました。
明けましておめでとうございます。
いつもSOGIを楽しみに拝読しています。
本年もご健筆とご健勝をお祈り申し上げます。
さて、小生の書き込みがショックを与えてしまったのでしょうか?
であるとしたら、少々直截に過ぎたかもしれません。お詫びします。
上記のように書き込んだのは、ごくごく簡単な理由からです。
碑文谷さんがオカルトを嫌っていらっしゃるようなので
それは無理解に由来するのではなかろうかと思い
一筆啓上申し上げた次第です。
碑文谷さんの仏教理解は、どちらかというと顕教的に見えます。
密教(あるいは禅)に対する親近感を感じない、というか。
それは“死”“彼岸”というものに対する距離感の問題でもあります。
“合理主義的”とでも言うのでしょうか。
団塊前後の世代の人たちに通底するつまらなさです。
『霊の発見』の五木寛之氏には驚かされました。
そのくらいの感性の幅があってもいいのではないでしょうか?
>タケさんへ
現在のブームとしての「スピリチュアル」を
病理とするかどうかですが、小生はそう思いません。
むしろ普及期ゆえの世俗化ではないかと感じています。
また、スピリチュアルを
スピリチュアル・ペイン/ケアに限定すべきものとも思いません。
キリスト教文化に由来するグリーフワークは
日本社会においてはある種の異質性があると感じています。
むしろ、日本の土壌が育んできた心霊術のほうが民衆にはなじみがあるわけで
それを「火事場泥棒」と呼ぶのは、合理主義的に過ぎる嫌いがあります。
町の拝み屋さんは、とうに遺族を侵食していますよ。
それが日本的な「スピリチュアル」の現実なのです。
ボディワークについては、宗教体験のためのものであり
狭義に捉えていただいたほうがよろしいかと。
要点は腹式呼吸と変性意識(ASC)への誘導です。
あえて広義にする必要を感じません。
「他の人を説得しようとする」云々は
碑文谷さんの言説を無批判に受容し
刷り込んでしまう人たちへの忠告と受け取ってください。
まったくの別件ですが、今週の週刊朝日に掲載されていた
鏡リュウジ氏のコメントは笑えますね。
まるで朝日新聞の記者が自分の意見を書いているみたいで。
長文失敬。
もう一言ついでに。
小生は霊を見たことはありませんが
江原某のような見霊能力者が葬儀を再構築したらどうなるのでしょう?
興味津々ですね。
葬儀というのは、個性の死後存続を前提にしているわけですから
見霊能力者に手伝ってもらったほうが
よほどまともな葬儀ができるかもしれません。
少なくとも、無能な坊さんに余計な金を払わずに済むのは確かでしょう(笑)
Sowhat?さん
改めてコメントいただきありがとうございます。少し様子がわかってきました(笑)
でも正確には理解できていないでしょう。
私の仏教理解が顕教に偏したものという理解はかなり正確でしょう。しかし、密教で言えば大下大円師のスピリチュアルケアについては評価していますし、彼のワークについては教えられるところがあります。
禅については友人の僧侶がかなりいますので偏見はないつもりです。
但し、悟るためのワークに特権的な位置づけを与えたがる人がいるのには違和感を感じています。
私は人間の心が極めて混沌としたものであり、傷つきやすくあるという現実を直視していきたい。おそらく他人の介在を許さない空洞をそれぞれが抱えていると思っています。それがひどく非合理的世界であると思っています。これは過去もそうであったろうし、未来においても続く現実であろうと思います。
だから文学が絵画等の芸術がそして宗教があるのには必然があります。人間の存在根拠が揺らぐような現実、それがスピリチュアリティだと理解しています。死だけに限定されるものではありません。
私は合理性を根拠に俗に言う江原某のような「スピリチュアル」に違和感を覚えるのではありません。混沌として脆弱な人間の現実に対して、安直な救い上げをしているように感じるのです。
なお、グリーフワークは欧米で誕生しましたが、必ずしもキリスト教文化から発生したものではありません。死別の悲嘆がもたらす現実の大きさ、強さに着目してのものです。
日本ではそれに対する現実がなかったのではなく、恐れ、ある種の穢れ意識、そして供養という形にそれは表現されていたように思います。
私の理解には限界があり、説明も行き届きません。その点ご寛恕願います。コメントとしては長くなりますので、この点で