先日、甥の結婚式があった。
いまキリスト教の結婚式が7割以上とか。
日本のキリスト教徒が1%というのに異常な数字である。
チャペル・ウエディングと言うが、「チャペル」は教会堂の建物のこと。
「教会(チャーチ)」は「信徒の集まり」で、建物を意味しない。
このブーム、信仰とはおよそ無関係なところでファッションとして流行している。
さてこの結婚式の司式を行ったのは外国人、プロテスタントの形式だから牧師のはずだが、おそらく「偽牧師」である。
かなり手馴れた司式、気配りも怠らない。
但し、教会での結婚式では説教が重視されるが、これはほとんどない。時間の制約もあるし、当事者のことも知らない。また、婚礼事業者としては余計なことを言われるのもいやなのだろう。
チャペル・ウエディングのほとんどがプロダクション派遣の偽牧師が多い。
特に外国人が人気とか。
また、チャペルは本物より豪華である。尖塔まである。
参列者は大きく二分された。
中高年の親戚と当事者の友人の若者世代である。
皆、着飾っているが、特に若い女性が華やか。
でも、その女性群、一人ひとりは異なっているのだが、顔、姿から受ける雰囲気が似ているのだ。
もちろん個々がよく知らない他人だということもある。
それぞれに個性的な服装だが、なぜか受ける雰囲気が同じなのだ。
一つは女性は化粧をするということにあるだろう。
化粧の仕方が似ると同じ雰囲気になるのだろう。
同じ若者でも男性陣は若者特有の高揚感は同じだが、素顔のせいか「同じ」という印象はない。
中高年の女性も化粧はするが、同じ雰囲気ではない。
これは私が中高年の世代に属し、若い世代との格差からくる偏見かもしれないのだが。
もし、私が絵筆を取り、人の顔を描くとすれば、若い女性は興味がなく、40代以上の男女に対して描きたいと思う。
個々の人生が顔に表れるからだ。
残念ながら私には絵筆で描く才能がないので不可能なのだが。
私がもし子どもの頃に戻り、人生をやり直すことができたとしても絶対不可能な職業というのがある。
それは画家や陶芸家といった美術関係の仕事、音楽関係の仕事、そして医者、特に外科医である。また、理工系はだめである。
訓練ではどうしようもない才能の欠如、音感のなさ、手先の不器用さ、理工系への興味のなさ。これはどうしようもないものである。
もちろん若者に個性がないわけではない。
最近若い女性作家が次々とデビューしているが、それは極めて個性的で、かつての時代では抑圧されて外に出されなかった感性が迸っている感じがする。
文学も男性のものであったということが、こうした新しい世代の女性の登場でつくづくと認識される。
披露宴での若い男女のエネルギーには圧倒された。
初老を迎えた私にはいるだけで疲れる。
だが、自分の若かった頃を思い出すと、もっと無茶苦茶だったような気がする。古い世代を蹴落とす感じがあった。
それは苦渋と共に思い出すのだが。
いまの若い世代には迸るエネルギーを感じるのだが、そこには一定の秩序がある。つまり、私の若い頃に比べると「大人」なのだ。
私たちはもっと子どもで幼かった。
最近感じるのは、問題のある若者もいることはいるが、中高年のほうが酷いとことだ。
感性、他人の気持ちを思いやる点において、男性、女性にかかわらず若者が優れていると思うことが少なくない。
人生を重ねて、感性が豊かになる人もいる。たくさんいる。
しかし、同じ生活環境で過ごすことにより、他人の気持ちに不感症な中高年の男女も少なくない。
私自身、息子に不感症ぶりを指摘されることが少なくない。
体験ということはある部分深めることにもなるが、他方体験していないことについては、柔軟な想像力が失われることで、感覚が鈍くなることがある。
人はほんとうにさまざまである。きょうだいだって違う。
人を「顔」だけで判断ができないのはもちろんである。
私はどうも観察力が鈍いようだ。
その証拠に最初「いい人」「好ましい人」と感じた人が付き合いを深めることによって大きく印象が狂うことが多い。
「見る眼がない」とよく言われる。
これは若い頃から変わらない私の欠点である。
似てます^^
私はいつも疑いなくみなを「いいひと」と思ってしまいます。
そしてそれはお人好しだと、人から指摘されます。
人生その繰り返しです。
でもそれを自分の欠点とは思いたくないと
感じてしまうお人好しがまだここにオリマス^^;