きょうは久しぶりに晴れ渡っています。
セカンドステージははや17回目今度のテーマは「黒服とお悔やみの言葉」です。
http://www.nikkeibp.co.jp/style/secondstage/manabi/ceremony/index.html
一般向けですが、私の素直な感想を書いています。
お悔やみの言葉を取り扱ったのは人気お笑いコンビが深夜のテレビで(これは深夜に観たのではなく、息子が好きで録画していたのを観たのですが)、お葬式に行ったときどう声をかけるのがいいか話題にしていたので取り上げました。
葬式に行く際に気をつけることはマナーよりも遺族に対する共感だろうと思います。そしてこの共感、相手の気持ちを感じ取る繊細な感性こそが大切です。無神経な何気ない「好意」が相手の感情を傷つけることがあるからです。
遺族の気持ちを感じ取るということにおいては、宗教者の態度、発する言葉が遺族を慰めたり、傷つけたりもします。
ときどき、ふんぞりかえり、「来てやっているんだ」という宗教者の態度を眼にしますが、もっと自覚してほしいと思います。
前に書いたかもしれませんが、ある僧侶の集まりに行ったとき、ある僧侶が
「最近は斎場に行っても、遺族が挨拶にこないで、葬儀社が代わりにくることがある」と憤慨していました。
私は「違うだろう。あなたがた僧侶がまず遺族のところに出向き、話を聴くのが本来だろう」と言いました。
昔に比べたら、宗教者(特に僧侶)への尊敬の念は確かに下がっているでしょう。それに対して怒ったり、嘆いたりするよりも、遺族の悲しみの同伴者になることを考えるべきだろうと思います。
最近、葬儀が個人化しています。この方向はさらに進むでしょう。
地域コミュニティも親戚も遺族の傍から後退し、一緒に宗教者も後退して、残るは葬祭業者だけになっている、という事態が少なくありません。
「葬儀社主導」と怒る前に、宗教者は遺族の傍に踏みとどまり、遺族の同伴者であろうとしなければいけないのではないでしょうか?
実は11月に日本クリスチャンアカデミーというキリスト教の団体で
「生と死と葬儀~宗教はどう関わる」
という題を与えられて話をすることになっています。
http://www.academy-tokyo.com/
キリスト教だけではなく、仏教、神道等とも対話したいとのこと、出席はどなたでも可能です。
簡単に引き受けましたが、厄介なテーマです。
キリスト教でもカトリックとプロテスタントでは違うし、仏教でも浄土真宗が特異ですし、宗派ごとに理解は異なります。もちろん神道も違う。また、特定の信仰をもたない人が多い。
同じ「宗教」で括れるかという問題もある。
日本人の民俗もあり、慣習も刻々変化しているものもあれば、内在しているものもある。
生命観の問題もある。この点では分子生物学の進歩がもたらしたものもある。
もっと現実的に高齢者の問題、末期患者の問題、自死の問題等、いのちの問題が揺らいでいる問題もある。
という具合です。
もっとも全部を語れる時間もなく、時間は仮にあっても語る能力が私にはない。
正直、引き受けるのではなかった、と後悔しています。
おそらく単純化した話をするしかないのですが、しばらく悶々とするでしょう。
でも課題にあるように、葬儀の問題は「生と死」に係る事柄です。具体的には個々の死にいく人と遺される家族や近い人たちの問題があります。
ここを離れ、葬儀を論ずることはできません。
今週末は愛知、来週の火水は石川に行ってきます。
先月に苦しみを味わっているので、その間に原稿を書き進めようと覚悟しているのですが、あまり得意ではない分野を扱うので、多少気が重いです。
自分の感覚がおかしいのかと思っていましたが、本記事を読んでホっとしました。何をどうしていいのか、どのように考えたらいいのか、どうしたら亡くなった大切な人は安心できるのか、いろいろなことを聞きたくもあり、一方何も話しかけてほしくない時に、通夜に来ていただいた僧侶の振る舞いはあまりにも耐えがたく、何で自分がこの方の世間話を聞かなきゃいけないのか、いろいろあの子のことを聞いて、分かってくれないとあの子は安心できないのではないか、もっと大切な話があるのではないか、僧侶にもとめすぎているのか、頼りすぎているのか、何でお葬式をしなきゃいけないのか、と思ってしまうほどの振る舞いだった。自分の感情感覚は通常と違っていたのかもしれない。でも忘れることはできない。でも、ホッとしました。ありがとうございます。 悪しき習慣なのか斎場の心づけを渡す行為も改めてほしいと思いました。。