マスコミの報道を見ていると
「注意しなくちゃ」
と思うことが多い。
民衆を煽り、後は都合が悪くなると、さっさと他人事のように逃げ出す。
テレビのワイドショーを観ると
テレビ自身、視聴者自身を「善人」にして問題を起こした人間を、まるで人でなしのように叩く。
後から誤報であったとわかっても、訂正は出すかもしれないが、基本的に知らん振りである。
昔は「世間」は地域であったが、いまやワイドショーや週刊誌の世界である。
この世間は時には温かな時もあるが、「騒がせた」人間には非情である。
法律的な善悪というより有罪、無罪は裁判所が裁くが
人間の善悪はほとんど境界線がない。
さまざまな理由や心理的な動揺等でもって、人間はどこへでも行く可能性のある存在なのだ。
私は家で果物ナイフを手にするだけで、一瞬恐怖感を感じる。
このナイフで家族を刺すという妄想に怯える。
そうしかねない自分がいる。
犯罪は新聞を見ると溢れている。
でも露出しない悪意、露出しない犯意は日常にもっと溢れている。
自分の中にも確実にある。
このことから自由な、無害な存在なんてない、と思うのだ。
善意はしばしば嫉妬、妬みを内包している。
ワイドショーを嬉々として観る、「あれあれ」「いやだね」と言いながら鬱憤を爆発させている。
また、マスコミはこの感情を刺激する。
断っておくが「犯罪を許容しろ」と主張しているのではない。
「問題を隠せ」と言っているのではない。
でも自分の内部を横に置いておき「正義面」をするのはどうか。
法律的な犯罪ではない、いわゆる「騒がせ事件」への「世間の叩き」を見ていると反吐が出る。
「叩く」側にも問題があるのだ。
小説が有効なのは、人間内部にある「揺れ」が表現されることが多いからだ。それが誰でもない一人称の問題として描かれるからだ。
「倫理」は横に置いておいて、まず小説を読もう。
最近は小説があまり読まれないらしいが、もっと小説が読まれていいのではなかろうか。
と言い訳して、小説を濫読する私である。
はじめまして、とみと申します。
「煽り」ということ、テレビのワイドショーにも感じますが、私は最近、どこぞのランキングで一位になっているブログにも感じました。(こちらのブログではありません)
ワイドショーやそんなブログに人気があるのは、ご指摘のように「煽られる」ことで鬱憤を晴らしている人が多いからなのでしょう。今の世の中はストレスの多い社会ですから。
ナイフを手にした時の「妄想」、分かる気がします。
私は、台所で料理中にそんな「妄想」をすることがありました。
あの「妄想」の正体はいったい何なんでしょうね…?