8月14日 明日は

昨日から多くの人がお盆休みに入り、道路は少し空いてきましたが、例年ほどではありません。
「長野」ナンバーやら地方の方が東京に来るというケースも年々増えているように感じます。

食堂は休んでいるお店も多く、ランチ時には開いている店の前に並ぶという風景も見えます。

明日は8月15日
連合国軍と日本軍が戦闘を終結した日。
国民は、昼に天皇によるポツダム宣言受諾するとの自前の声での放送をもって知らされた(この時はまだ私は生まれていない。母の胎内にいた)。

この放送を聴いた人の感想が記録されているが、結構な自由主義者も、終戦でホッとした反面、負けたことを惜しむ気持ちを表明している。銃後も闘っていて、そして負けたのだ。

これを「終戦」というか「敗戦」というか議論があった。
「終戦」というのが「標準」とされたが、それは戦争責任を曖昧にするということで「終戦」が選ばれたのではないかという意見があったからだ。
後から占領軍が入ってきて代わって統治したのだから「敗戦」以外の何ものでもない。「終戦」ならこういう事態は招かなかったので、国際政治上は「敗戦国」待遇以外の選択肢はなかった。

ただ、一部に叛乱はあったものの、国民は「敗戦」による「終戦」という事態を案外簡単に受け入れた。
天皇が直接国民に呼びかけたというのも大きいが、この先戦争を続ける気力がすでに失われていたのであろう。
その意味では「終戦」も確かな感覚であったろう。
大本営発表の「嘘」もだんだんわかってきていただろう。

詔勅を聴いて「ホッと」したのも事実なら「敗れたことへの悔しさ」も同時にあったろう。
戦後、特に知識人は「敗れたことへの悔しさ」を抱いた気持ちを口外せず、「ホッと」したことのみ語り、戦争加担の事実を隠蔽しようとした。
朝日新聞をはじめ「総懺悔」をし、戦争責任を曖昧にするべく「終戦」という言葉を用いたのは、ほとんどの人に「疚(やま)しさ」があったからではないか。
新聞社の熱狂ぶりは酷かった。どんな言葉で謝ってもすまないだろう。あの扇動は加担というより軍と並ぶ双璧だったろう。

私は昭和20年の翌年1月に生まれたが、アメリカのキリスト教会が「善意」で送ってくれた食料や衣服で育てられた。
子ども心に占領軍の前に頭を垂れた状態であった。
というよりも子ども心にはマッカーサー元帥は羨望のまとであった。
1951年にマッカーサーは解任され米国に帰国したのだが、そのことを正確に理解していない私は「いちばん偉いのはマッカーサー元帥」と言ったら、兄が「アイゼンハワーだよ」と言ったのには驚いたことを記憶している。

私は誕生以来戦後を歩んでおり、戦前とは隔絶された時代の空気を吸って育った。「戦後民主主義の子」であった。
戦争のことをずいぶん昔の出来事のように感じていたが、それはすぐ前のことであった。
私は戦前と戦後を隔絶したものと思っていたが、その前の世代は当然のことながら戦前、戦中、戦後を連続して生きていたのである。

日教組が「再び教え子を戦場に行かせない」とアピールしていたが、何か遠い世界のことのように感じていた。

私が「戦争」を、自分の国の歴史として、自覚的に感じたのは65年に締結された日韓条約反対運動に身をおいた以降のことである。
私には朝鮮半島を併合し、連行し、炭田等でこき使い、戦争終結後も差別を続けた日本が、それらのことがないかのようにして取り込む偽善が許せなかった。
連行されて居ついた人たちと九州筑豊の閉山炭住で出会ったこと、在日の親友がいたことも影響したのだろう。
過去の歴史をなかったかのようにする政府が許せなかった。
それが64年の東京オリンピックの年に上京した2年目のことであった。

8月15日をどう理解するかはそれぞれである。
私は毎年、暑い夏とともに記憶している。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「8月14日 明日は」への4件のフィードバック

  1. はじめまして
    >後から占領軍が入ってきて代わって統治したのだから「敗戦」以外の何ものでもない。
    ポツダム宣言は日本としては条件付き降伏で、無条件降伏したのは軍部でけです。
    それをアメリカが無理やり占領統治に持ち込みました。当時の日本はそれに抵抗する力はありませんでした。
    >。「戦後民主主義の子」であった。
    WGIP世代ですね。
    >朝鮮半島を併合し、連行し
    併合は朝鮮から願い出ています。強制連行の事実はなく、自由意志での渡航です。
    >炭田等でこき使い、
    学歴もなく、言葉も不自由な外国人に当時どれだけの職業の選択肢あったでしょうか。
    なら朝鮮で働けばよいのでは。
    >戦争終結後も差別を続けた日本が、
    何を差別と言っているのか知りませんが、彼等にも責任の一端はあると思います。
    在日朝鮮人・韓国人のルーツと三国人の由来

  2. おつかれさまです。なぜか(?)お盆前からバタバタしまして遅寝早起きで・・・お盆を感じないまますぎてしまいました。(自分の中で・・)仕事の上では、初盆の返礼とかお盆飾りだとか、お盆だらけなんですが・・・。久しぶりにおじゃましました。
    ・・山陰の片田舎で育った僕のお盆は、墓参りに帰ってくる親戚のおじさんたちに貰う小遣いを楽しみに待っていた。のと 地域の盆踊りで太鼓を叩くのを心待ちにしていたり・・で 祭りのあとの寂しさを人一倍感じていました。今もたまに帰って鉢を握ったりしますが・・体力が続きません。(笑い)ただ・・最近は太鼓を叩きながら昔、太鼓の手ほどきをしてくれた近所のおじさんとか、いろんなひとの面影を偲びながら盆踊りに参加するようになっています。今年は帰れなかったけれど、来年はかえれるかなぁ。
    ご自愛くださいませ。

  3. umezhoさん
    お盆は皆さん、お忙しいのですよね。
    ボクは遠巻きで盆踊りを見ていた口ですので、輪の中や壇上で太鼓や笛の人たちは「スゲーナァ」と思って見ていました。
    ショゴス様
    コメントありがとうございます。
    WGIP世代というのですね。
    調べたらウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(“War Guilt Information Program”、略称“WGIP”)とありました。
    「実際には日本と連合国、特に日本と米国とのあいだの戦いであった大戦を、現実には存在しなかった「軍国主義者」と「国民」とのあいだの戦いにすり替えようとする底意が秘められている。」と分析、とありました。
    こういう動きはあったかもしれませんが、後は自分で考えるのですから、そうなる保証はないわけです。
    私たちの世代は「学級会」ではなく「児童自治会」でしたから、何でも子どもたちの自主性に委ねられ、教師はよほどでないと口をだしませんでした。
    でもこういう事例も全国的には少ない例だったようですが、子どもなりに考えて行動しという経験になり、よかったです。
    朝鮮半島の問題については法制度的にどうであったか、が基準ではなく、実態はどうだったのか、という視点で見るようにしています。自分にもさまざまな痛苦があるわけで、他人の痛苦にも感じる、ということが必要だと思っています。
    正義面するのではありません。

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