「悼む」ということ

真宗大谷派の同朋新聞の座談会に招かれたことがきっかけで、いつも同朋新聞を送っていただいている。
今号(2010.Feb)には前号に続き作家の天童荒太さんと真宗大谷派の僧侶である佐野明弘さんの対談「『悼む』ということ」の後編が掲載されている。

広辞苑で「いたむ」を引くと「痛む・傷む・悼む」と出てくる。

(1)(自五)①(肉体に)苦痛を感じる、②なやみに思う、かなしく感じる、心痛する、③迷惑がる、④(傷)破損する、⑤(傷)腐る、⑥損をする(2)(他五)①苦痛に思う、心痛する、②(悼)人の死をかなしみなげく、(3)(他下二)いためる(下一) ◆「痛」は、肉体的・精神的な苦しみの場合、「傷」は、きずつく・腐るなどの場合に使うことが多い。

とある。

私の語感とは少し異なる。
例えば「心をいためる」の場合、広辞苑その他の辞書では「心を痛める」と使うほうが多い、とされる。断定されているわけではないが。

私は肉体的な「いたみ」を「痛む」とし、精神的な「いたみ」でも「痛む」を使うことはある。
だが、「いたみ」の中でも他動的な、例えば「死別」などによってもたらされた「いたみ」は「心が傷つく」という意味で「傷む」を使うことが多い。
心の深いところに及ぼす「損傷」は「傷む」を使う。
この「傷み」は自覚されるとはかぎらないのだが、その人の心のある部分を確実に損傷させている場合だ。
「痛む」は直接的な痛苦感覚を表しているように感じる。
あくまで「私は」であり、他に強制するつもりはないのだが。
だから私は「死別の悲嘆」であるグリーフは「傷む」で表現するようにこだわっている。

広辞苑にあるように「悼む」は「人の死をかなしみなげく」ときに使う。弔電でも「●●様のご逝去を悼み」と用いる。
でもこれは少々儀礼的な感じがするのだ。
三人称である他者が「悼む」のはわかるが、二人称である遺族や深い関係者は同じ「悼む」ではないような気がしている。

実は天童荒太の直木賞受賞作『悼む人』を読んだときにも感じた違和感であった。
主人公は見知らぬ死者を「悼んでいた」のであった。
しかし、「多くの忘れられている死者」の存在に目を向けさせたという面では「傑作」と評価されてしかるべきだろう。

この天童ー佐野対談はかなり本質的なものをついたものである。抜粋しよう。

天童:誰かが悲しみに気づいてくれたり、話を聞きに来てくれる、そういう存在が人には一番大きな力になるのではないかと感じたのです。

佐野:その人は死んだんだと死人として見るのではなくて、その人は生きたのだと。その人は一生を生きた。そう転換することによって、ともに生きた時が違う形で見え始める。それが人が見えてくることなんですね。

対談中、佐野が「悼む」という言葉で「マリア信仰に出てくるピエタ」をイメージした、と語る。
「十字架から降ろされたイエスを抱きかかえて、人間のあらゆる悲しみ、苦しみを何も言わず、ひたすらじっと耐えて引き受けている姿、それがマリアなんだと」とカトリックの人に教えてもらった話をする。
天童は「実はピエタを意識」していたと告白する。

ウイキペディアの「ピエタ(ミケランジェロ)」には
「ピエタは聖母子像の一種であり、磔に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻などのことである」
と、説明されている。

ピエタはイタリア語で「悲哀」「慈悲」とか表す語だと説明されているらしいが(わからないので語れないのだが、手元の羅和辞典では「義務感」「敬虔」などと並び「家族愛」などが出ているが、不勉強なためこれ以上言うことはない)、
これを表す英語のlamentはロングマンによるならば「グリーフや深い悲しみ(sorrow)の強い表現、特に人の死など悲しみを表現する歌や作品」とある。

私はカトリックではないので、ここいらのニュアンスはわからないので、これ以上は言えない。

確かに人の死が実感を失いつつあるように思える。
人の死は認識するものではなく体験するもの、とこれまで私は繰り返し語ってきた。
だから「悼む」感情は大切であるが、それをどこまで引き延ばしていったとしても届かない場所、それがグリーフのような感じがする。
「いい人」なのだが恋愛相手にはならないような
そう、「失恋」もグリーフをもたらすのだ。
(あー、どうも脱線気味。これで終える。)

真宗大谷派はすごい、と思う。一般門徒向けの新聞でも内容を薄めようとはしていないからだ。

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投稿者: Hajime Himonya

碑文谷 創(ひもんや・はじめ)/ 葬送ジャーナリスト、評論(死、葬送)、 元雑誌『SOGI』編集長(1990~2016)/ 【連絡先】hajimeh46@nifty.com/ 著書 『葬儀概論(四訂)』(葬祭ディレクター技能審査協会) 『死に方を忘れた日本人』(大東出版社) 『「お葬式」はなぜするの?』(講談社+α文庫) 『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣)  『新・お葬式の作法』(平凡社新書) ほか/

「「悼む」ということ」への4件のフィードバック

  1. 真面目な話の後の「失恋もグリーフをもたらす」を読んで爆笑しながらも、私も昔失恋したときに同じことを思ったな、と懐かしく思い出しました。
    どなたの著だったか、「そうか、君はもうないのか」という心境そのものですね。
    ちなみについ本人にそのことを言ってしまい、「私を勝手に殺すな!」と怒られました。

  2. 『そうか、もう君はいないのか』は作家城山三郎の遺稿で、娘さんがまとめました(新潮社刊)。
    妻に先立たれ深く傷ついた夫は多く、文学者では他に江藤淳が妻に先立たれています。彼は自死しています。
    夫の死は妻の寿命へ影響があまり見られませんが、妻の死は夫の寿命を短くするのに影響大です。

  3. はじめまして。「グリーフ」を検索していたらここにきました。
    ここ最近の葬儀に求める価値観というのが、消費者から見れば「単なる社会的、宗教的儀礼」に留まっていないように思います。低価格にはしる葬儀屋さんは良いようにこの「社会的、宗教的」に走っているのかな?と思います。
    人の死に方は千差万別ですが、このに生を受け、亡くなるまでの間、どのような一生を送ったか?残された人間は気持ちをどう整理すればよいのか?等は無視されているように思います。
    合理的で安価な葬儀だけを消費者は求めていないのではないでしょうか?

  4. 悲嘆、喪の仕事、喪失、いろいろなキーワードがでてきますが、葬儀=送り方ー葬りかたにつきるとおもうのです。
    葬儀社は決して安価な葬儀だけを推し進めてるわけではないとおもうのです。一部の心無い業界進出者によって問題がすりかえられているのだと思います。消費者(葬儀社を利用する人)も勉強が不足しているとおもいます。一生で一番大切なことを人任せにして終わってから、、ああだった、こうだった、、と。喪の仕事、、もう一度考えたいただきたい。通夜・葬儀・初七日・忌明けの法事・・日にちが薬=癒し期間

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